アリス


息苦しい。そう感じ、横に時恵が居るのも忘れ、龍太郎は飛び起きた。ぐっしょりと汗で寝巻きは濡れ、額に前髪が張り付いて居る。余程掻いたのだろう、喉は張り付き渇き、一滴顎から流れ落ちた。
肌蹴た布団に目が覚め、時恵はくぐもった声を出した。
「如何か、為さって?」
虚ろな目に龍太郎は笑い、首を振った。
「何でも、無い…」
汗ばむ首筋に手を遣り、ベッドから抜け出た。其れを、時恵は揺らぐ瞳で見て居た。
「何処へ…」
「台所。喉が渇いた。」
「ワタクシが…」
「いや、良い。寝て居為さい…」
其れでも時恵は起き上がり、台所へと向かった。不安だった。此の侭龍太郎が何処かに行きそうで。ふっと消え、何かを追い掛け、穴に落ちそうな、そんな気がした。
グラスを乗せた盆を運び、寝室に戻ると時恵は其れを床に落とした。ごとりと響き、絨毯を濡らす。
「龍太郎様…?」
確かに、確かにさっき迄其処に居た筈なのに、蛻の殻のベッド。消えた。然し白蓮が傍に居ると云う事は、未だ家の中なのだろうか。
気持良さそうに寝ている白蓮に声を掛けた。
「龍太郎様、知らない?」
薄く目を開け、鋭い目付きを向ける白蓮。白蓮は大層寝起きが悪い。ふいっと、廊下を指し、又目を閉じた。
――あっちに行かれてよ。
「縁側?」
そう云えば、今夜は月が奇麗だった。上弦の月が、空で輝いて居る。
取り巻く紫煙。
「龍太郎、様…?」
時恵の声に、龍太郎は顔を向けた。ほっと胸を撫で下ろし、笑う。
「急に、居なく為らないで下さいませ。」
「悪い。」
じっと見詰められた時恵は首を傾げた。
「何か。」
「水は?」
「あ…」
時恵は俯き、腰を上げた。何しに行ったんだと云う龍太郎の目が痛い。
「良い。俺が持って来る。」
「申し訳、御座居ません…」
やれやれと、煙草を消し、台所に向かう。其の後姿。本当に、月が奇麗だ事、と一人思った。
グラスに水を注ぎ、一気に飲む。少しは渇きが引いた。暗い中で足に当たった何か。龍太郎は其れを持ち上げ、見た。
「酒…?」
普段なら気にも止めない其れだが、今日は何だか、酷く魅せられた。蓋は開いておらず、重たい。其れに、龍太郎は考えた。
グラスを持ち、縁側に戻る。
「良い物、見付けた。」
其の瓶に時恵は笑い、然しグラスの数に、首を傾げた。
「五つ?」
二人で飲むのに、何故他に三つも要るのだろう。
困惑する時恵に、龍太郎は笑った。
「まあ、見て居ろ。」
暫く、月を見て居た。 そうして、夜中だと云うのに、足音を聞いた。
「御出で為すった。」
笑い、門に向かう。
「驚かすなよ…。何で御前が、あ、もう龍太の家か。そら居るわな。」
静寂の中で聞こえる声。
「驚いたのはこっちだ。本当に其の徘徊癖は治って無いんだな。」
「放っとけよ。」
寝苦しい、そう思う時は大抵、此の男もそう。そうして、徘徊する。昔から、変わらない。
「酒があるんだ。来ないか?」
男は其の言葉に、顔を歪めた。
「道理で。御前の家の前を通ろうと思った。」
「そうか?娼館迄の最短距離だろう?」
笑って遣ったが、こんな気持ちの時、此の男は娼館に等行かない。唯、当ても無く町をうろつくだけ。そして、朝日が昇る頃、家に帰る。全く、何も変わって居ない。
龍太郎は手を引き、男を門の中に入れた。
「止ぁめぇてぇ。拉致んな。」
「拉致じゃない、歓迎だ。」
「御前がすると拉致なんだよ。」
渋々庭を抜け、縁側に姿を現した。其れに時恵は目を丸くした。
「井上、様…」
かっと赤面し、身体を隠した。其れは、拓也も同じで、慌てて視線を逸らした。
「人を呼ぶ時はな、妻の姿位確認して呼ぶ事だな…」
寝間着姿の時恵に、拓也は目の遣り場に困り、逸らし、頭を掻いた。
「嗚呼、悪い。忘れてた。」
寝巻き姿処か、女の裸さえ見慣れている筈の拓也の其の顔に、笑いが出る。
「着替えて、参ります…」
呟き、腰を上げた時恵に、手が伸びる。自身が着ていた羽織を脱ぎ、肩に掛けた。
「面倒だろう。見ない様にするから、着てて。少しマシに為る。」
着て居た筈なのに、温もりも何も感じない其の羽織。本当に体温があるか疑わしい。なのに、其の心遣いが温かく、時恵の体を温めた。
握り、笑った。
「本当に、井上様は、心が温かい。」
其の言葉に、照れ臭そうに顔を歪める。
「女にだけ、な。男は、雪の中で全裸だろうが、知らない。」
「まあ。」
くすくす笑う時恵。
「そう云う男だ、井上は。」
「龍太が全裸なら、褌位貸して遣るよ。」
「要らん…。他人の褌借りる位なら潔く死ぬ。」
「見せられる方が要らんわ。」
笑って良いものか時恵は迷い、時恵の前である二人は同時に咳払いした。
髪で顔半分が隠れた顔を月に向ける。其の漆黒の髪は、流水の様に美しく輝いて居た。
腰を下ろし、置いてある瓶を持ち、月明かりに向ける。ラベルを見、にたりと口角を上げた拓也。相当な代物だと判る。
「流石。」
其れだけ呟き、蓋を開けた。
辺りに込める酒の匂い。時恵は目を瞑り、腰を上げた龍太郎。
「何処行くんだよ。」
呼んで於いて下戸の自分は茶でも飲む気か、グラスに注いで居た拓也は聞く。
「待って居ろ。」
笑い、奥の部屋、仏間の闇の中に姿を消した。
グラスに揺らぐ、金の粉。時恵は物珍しそうに下から覗き、月明かりに当てた。
「何ですの?此れ。」
「金粉。」
此れを作った人間の、憎らしさと云ったら無い。瓶自体は黒く、中が見えない。光に当てても、決して覗けない。酒器に注いだ時、初めて其の中を見る事が出来る。向こうが見える程の透明な酒の中で、金魚の鰭の様に揺らぐ金粉。月明かりに当てると、一層輝き、人の心を奪った。余り酒に興味の無い時恵ですら心奪われたのだから、拓也はもっと。
「只今。」
暗闇の中からゆらりと現れ、月明かりに照らされた顔。まるで、グラスの中の金粉の様。
持って居た額を置き、そっと笑った。
「先生。」
呼び、時恵からグラスを取り、前に置いた。
無表情な写真な筈なのに、何処と無く笑って居る。
そう云う事かと時恵は理解し、然し、グラスはもう一つ余って居る。
「拓也。」
指を動かし、何か出す様云う。
「や、やだよ…」
本人には判る様で笑って拒否をしたが、龍太郎の顔に諦め顔で息を吐いた。
袂に手を入れ、取り出した銀色の装飾品。其の小さな面積に、梔子の花が細かく細工される。酒と云い此れと云い、職人とは、何と憎らしい存在なのだろう。
鎖を持ち、龍太郎の前で揺らす。其の揺れに頭を動かす龍太郎。
「遊ぶな…」
「ふへっ。犬でやんの。」
声を出して笑う拓也。其れに時恵は違和感を覚えた。こんな顔をして居ただろうかと。其れとも、良く見て居ないだけで、気付かなかっただけなのか。否違う。絶対的に何かが違う。なのに其れが何処か判らない。
ふっと月上がりが差した目。
嗚呼、そうか。目が違うのかと、時恵は判った。
「遊ぶと、祟られるぞ。」
揺れていた其れを掴み、睨む龍太郎。
「はっ。怖かねぇよ。寧ろ本望だね。」
唯のペンダントだと思っていた其れは、実はロケットで、中には写真が入って居た。どくりと、時恵の心臓が鳴る。無言で其れを奪い取り、中の写真を覗いた。
幼い頃見た、在の優しい顔。本当に姉だったのだと知り、同時に、琥珀に似ている事に気付いた。
「あ、姉さんが誘拐された。金ねぇから身代金如何し様。他の金持ちの子供誘拐して…」
其の身代金で身代金を払うか、拓也は唸る。
「銀行の残高、幾らか云って見ろ。」
如何せ覚えて等居ないだろうが。
「在れは、俺のじゃねぇよ。井上家のだよ。」
「御前は井上家じゃないのか。ならば何家だ。何拓也さんだ、云って見ろ。」
「はい、井上です。」
笑い、時恵から其れを優しく取り返し、開いた状態で置いた。本の少しだけ酒の入ったグラスを置き、グラスを鳴らした。
「切子だぜ、此れ。」
「バカラで何時も飲んでる癖に、何を云う。」
笑い、三人はグラスを向けた。かちりと心地良い音が響き、酒の味に酔いしれた。
揺れる金粉、喉を流れる冷たさ、抜ける芳香。月を飲み込んだら、こんな感じに違いない。
「先生、旨いですか?」
「姉さん如何よ。米の甘さが良く出てるね。」
「本当。甘くて、加減が判らなく為って仕舞いそう。」
「憎い野郎だぜ。」
未開封だった酒は、何時しか半分以上減り、三人を心地良さへと誘った。




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