欲を司った


何が面白いのか、其の顔は笑い、ハロルドを見て居た。一体何の積もりで、今更そんな行動を起こしたのか。男は煙草を消すと、背凭れに乗せている腕に顔を乗せた。
「ねぇ、ベイリーちゃん。」
「誰がベイリーちゃんですか。」
「だって俺の方が、年上だろう?」
男はニヤニヤと笑い、椅子に乗った侭近付いた。前後に動く椅子の様子は馬に見える。
「用が無いなら帰って下さい、私は忙しいんです。」
「其れって詰まり、俺が暇って云いたいの?」
男の目に、ハロルドは嫌気を孕んだ目を向け、眼鏡を外した。少しでも輪郭がぼやける様に、直視せずに済む様に。
「君が暇なんじゃなくて、仏蘭西軍が暇なんだろ、負け犬。」
開戦早々独逸にやられ、尾を巻いて逃げた仏蘭西軍が。
そう心の中でハロルドは悪吐き、腰を上げた。
「負け犬ってさ、あれは仏蘭西軍が悪い訳じゃないんだよ?」
「又か…。悪いのは全部人の所為。」
其の性格が気に食わない。昔から。何年振りだろうが、男の性格は変わって居なかった、変わり様が無かった。
「占領されたのは独逸の所為、負けたのは英吉利が本気出さなかったから。じゃあ、何だ。自分達に非は無いとでも云うのか。馬鹿馬鹿しい。」
「陛下が決めた事に反したい訳だ?」
楽しそうな目が揺らぐ。其れにハロルドは吐き気がした。
苛々する。
此の男と居ると、本当に苛々する。
ハロルドは無視する様に軍帽を被った。
「何処行くの?」
「ロワ元帥には関係の無い事です。」
「待ってよ。」
椅子に座った侭男――仏陸軍総督の陸軍元帥ジョルジュ・クレマン=シャルル・ロワは腕を伸ばし、ハロルドの進行を妨げた。冷たく見下ろすが、男は笑った侭ブラウンの目を動かした。
とても、楽しそうに。
「邪魔しないで下さい。戦争は遊びじゃない。何でも遊びだと思うから、容易く負けるんだ。戦争と恋は良く似てる…、此れ、内の海軍元帥様の有り難い言葉だから、良く覚えて於くと良いよ。」
「御前には、遊びじゃ無かったよ。負け犬に為ったけど。」
無表情で、けれど笑っている目。此の目をする時のジョルジュは、本心で無い事を云って居る事をハロルドは良く良く知っている。
何時もそう。
Je t'aimeと囁く時でさえも。
ジョルジュの目が笑った事は無かった。
ジョルジュは椅子から立つと、其の侭下からハロルドの唇を塞いだ。
ぞっと肌が粟立ち、ジョルジュを突き飛ばしたが、ジョルジュは声を出して笑うだけでハロルドの気等考えて居なかった。
「何、挨拶でしょう?」
「挨拶で唇舐める奴が居るかッ」
ハロルドは何度も擦り、唇は熱を持った。鳥肌が治まらず、此の男の気持悪さを再確認した。
幾ら擦っても感触は拭えず、涙が出そうに為る。こんな男に、こうも易々と唇を奪われた事にハロルドのプライドは失墜して居た。だから、気付かなかった。
薄く笑みを蓄えた、不気味な顔に。
気付いた時には、ジョルジュの顔越しに天井が見えていた。薄く不気味に笑うジョルジュとは反し、天井は、美しかった。赤、黄色、白、其れ等の色を蓄えた薔薇達が、ハロルドを見ていた。
「退け…」
弱く云うハロルドに、ジョルジュは声を殺して笑った。
「退くもんか。」
足に感ずる男の重み。忘れた筈の手の感触が、頬に、髪に蘇る。
此のブラウンの目で、俺を見越して何を見て居た…?俺なんか、始めから見ちゃ居なかっただろう…?
そうだろう、ジョルジュ…。
じんわりと目頭が熱く為り、記憶がハロルドの全身を圧迫した。
「御前の目は、本当に綺麗だな…。海みたいだ…」
「止めて…呉れ…、ロワ元帥…」
「昔に戻ったみたい…、又、御前と、一緒に居られるなんて…」
不気味に笑う目は濡れ揺らぎ、傷付いた目をした。
本心、此れが。此れがジョルジュの本心…。
何も最後に見た時の目を今、本心を云わずとも良いじゃないかと、ハロルドの目から涙が落ちた。
「ジョル…ジュ…」
「アンリ…」
耳元で囁かれた声。瞬間ハロルドの頭は二十年程昔の記憶をはっきり蘇らせた。
沢山のライト、身体に抜ける音楽、控室の沢山の衣装と沢山の花束、酒と煙草の充満する小さなパブ、笑い声、歓声、ブラウンの髪にブラウンの髪、薄い口から漏れ出される仏蘭西語、優しく髪を掬い上げる指先、触れる唇、酒、煙草、快楽、そして薬…。絶望的な漆黒の世界で見た、真っ青な瞳。

――ヘンリー…

違う、俺は。俺は………。
現実が記憶に払拭される。
「ああああああ………ッ」
「其れで良い、其れで良いんだアンリ…、俺の、アンリ…」
愛してるよ。
今にも泣き出しそうな顔で、ジョルジュは吐き捨てた。




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