欲を司った


銀色のナイフが、頬を何度も掠め、首には細い腕が絡む。そんな自分の姿を、鏡でジョルジュは見ていた。後ろには、愛らしい笑みを浮かべるマウリッツ、机には二匹、色違いの兎。一匹は良く見るミルクティの様なふんわりした色合いの兎で、マウリッツに良く似、何も考えて居なさそうな頭を彼方此方に動かす。一匹は烏の様な身体を持ち、思慮深く、切れ良く頭を動かして居た。
「ねえ、ムッシュ、聞いた?」
「何を?」
「ヘンリーねぇ、もう英吉利に帰って来ないんだって。」
何でだろうねぇ、とマウリッツは甘ったるい声を出し、ナイフで黒い兎の丸い背中を撫でた。
「へぇ、日本?」
「違うよ。香港。」
「香港?」
鏡越しにマウリッツは笑い、ミルクティ色の兎を抱き上げ、キスするとジョルジュの膝に乗せた。きちきちきち、と威嚇され、撫でると案の定噛み付かれた。
怒りを見せる事もせず、噛まれた箇所がじわじわと赤く為る過程を眺めた。其処に触れた刃先、良く磨いてあるのか切れ味は鋭く、血は一層溢れた。
「痛くないの?」
「痛くないって云えば嘘に為るけど、痛いって程でも無い。」
白い手袋、親指の付け根に赤い模様が広がる。
「なら、此れは如何?」
立てられて居たナイフは斜め向き、しっかりとジョルジュの手袋を裂いた。
「…次は何?俺の喉元から同じ事をするの?」
其の問いにマウリッツは薄く笑うだけで、又ナイフをジョルジュの頬に当てた。微かに付いていた血が頬に付く。
「僕達軍人の、いや、兵士の髪が短いのは、何でだか知ってる?」
「いや?」
手は喉元から離れ、強くジョルジュの髪を掴むと後ろに引いた。
「こうして後ろから掴まれて、喉元を曝け出さない為だよ。ローマ帝国が考えたの。」
ナイフは頬から滑り、喉元を抑えた。二匹の兎は、小さな目で其の先の楽しさを待ち侘びた。
「長髪の起源は、仏蘭西、君達だよ。」
「何が云いたいの?」
愛らしい顔は、一層愛らしく笑う。
「根本的に違うんだよ。戦争に対しての心持が。」
喉元を刃先で遊び、其の微かな痛み。血が、滲んだ。
「迷惑何だよ、ムッシュ。性格の悪さが良く判るよ。」
「坊やに云われたら、一寸考える。アンリなら未だしも。」
「昔の恋人に周りをウロウロされると、苛々するよ。」
マウリッツはジョルジュから体を離し、ナイフを壁に投げた。其処には世界地図が張られ、狂いも無く仏蘭西に刺さった。
「…御見事。」
「次に僕を苛々させたら、ムッシュの額がこうだよ。ヘンリーが居ないなんて、誤算だ…。如何仕様…」
愛らしい歪んだ声が、頭の中で何時迄も反響していた。




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