羅刹国


一瞬、見間違いかとも思ったが、矢張り確かに其処に居た。等々頭がやられたかと本気で龍太郎は自分を心配した。座る筈の椅子には座れず、変わらぬ不気味な笑みを蓄えた顔で『其れ』は座っていた。心無しか、鎮座する剥製の狼の目が、血に濡れ輝いている様見受けられた。低く唸り、そう喜んでいる。『其れ』の御帰還は、剥製の狼には喜ばしい事だが、生きている狼には、余り良い思いはさせ無かった。
「何故…居る…」
龍太郎が呟くと『其れ』は一層口角を上げた。
「何故。俺の部屋でもあった。理由は要るか?」
『其れ』は喉の奥で低く笑い、其れは剥製の声なのか『其れ』から出ている声なのか、最早判別出来ず居た。
『其れ』は龍太郎を見ると鼻で笑い、剥製を見た。会話を楽しんでいる様だった。
「随分と、地に堕ちたな。帝國軍。」
龍太郎は視線を逸らし、言葉を無くした。
「其れは…」
否定をする積もりは無いが、肯定する積もりも無い。
軍は確かに、『其れ』が君臨して居る時より弱体して仕舞ったが、国としての一体化を考えると強く為ったと云える。『其れ』の時には無かった団結と力がある。
此の際、地に堕ちた帝國軍等如何でも良い。考えなければ為らないのは、今、何故、此処に、『其れ』が居るか。
昔と変わらず『其れ』は、特注で気に入りの椅子に座り、満足げに足を揺らす。
「なあ、本郷。」
何時、椅子から立ち近付いたかは知らないが、目の前の顔に龍太郎は悲鳴飲み込み数歩後退した。
「何でしょう…」
ゾッとする程冷たい『其れ』の手は、龍太郎の顎に伸び、体温を簡単に奪った。其処から凍って仕舞うのではないかと思う程冷たい手。無理も無い。
『其れ』は死んでいるのだから。
「加納、呼んで呉れないか?」
呼んで、談笑でもするのだろうか。抑、馨を呼んで処で、果たして見えるか。馨なら見えそうだが、見えなかった場合、異常人のレッテルは間違い無く貼られるだろう。そうして、『其れ』と同じ事を鼻で笑い乍ら云う。「陸軍さんも地に堕ちましたね、全く全く」と。嫌な事ばかりが頭を過ぎる。
龍太郎の話し声に誰か来たのかと、横の大佐室から小野田が姿を現した。
「本郷元帥、何方か御見えに…」
其処で言葉は詰まり、険しい顔で頭を振った。
居ない筈の人間が、其処に居る。見間違いかと目を擦り、然し何度見ても、何度間違いだと自分に言い聞かせても、矢張り『其れ』は其処に居た。
「…木島…元帥…」
出た言葉は確信と変わり、薄く笑う姿は、生前と何ら変わり無い。思わず、御帰り為さいと云う言葉が口から出そうに為った。
「小野田。」
「はい…?」
「敬礼は。」
俺が居るのにぼさっと突っ立ち、敬礼もしないとは何事だと、叱責された小野田は、龍太郎を盗み見た。
和臣に敬礼する。
則ち、元帥である龍太郎の存在を否定する。
生きて居る時なら幾らでもした、和臣は其の立場に居た。如何遣っても頂点に居るのは和臣だったから。
けれど今は違う。
龍太郎を頂点とし、自分は其の二番手。此れが拓也なら絶対にしない。そう思ったからこそ小野田は云った。
「嫌、です…」
「ほお。」
血を塗りたくった様な眼球が窄まり、ぐるんと一度、大きく首を回した。
「小野田、敬礼。」
「……嫌ですッ」
和臣が人間で無い事を目の当たりにした龍太郎は、重たい音に顔を向けた。
何が、起きたんだ…?
和臣の溜息を聞いた直ぐ後、真っ黒い棒状の物が真横を通り、冷たい空気を感じた。其れが和臣の腕だと、床に倒れる小野田を見て知った。
「小野田…?小野田、おい…」
薄く開く目元は痙攣し、色を無くした唇の隙間から涎と舌が垂れて居た。
「何を、した…?」
「何だろうな。」
此れ程楽しい事があるかと、破顔する和臣の顔は不気味で、だからと云って理解出来ない訳では無かった。
此の男は、俺達を如何扱ってた?
支配し、抑圧し、洗脳して居たでは無いか。
其れをはっきり形に示されただけで、何の問題がある。あるとすれば、不愉快。
「木島さん…」
「んー、御前の言葉は聞きたくないな。」
一度として和臣の言葉を聞いた事の無い龍太郎、和臣が聞かないのは当然だった。自分だけ聞いて貰おう等、そんな甘い考えは誰にだって通用しない。
「俺って案外、他人を見てる。御前達は俺を見様とも、理解し様ともしないのに。」
高らかと和臣は笑い、剥製を触った。
「井上を元帥にしなかったのは、頭が良過ぎるから。頂点に居る人間の頭の回転がずば抜けて早いと、周りは置いて行かれる。そう云う人間は、俺の大佐もだが、二番手が適任だ。御前の一寸遅い回転と、井上の速さが、世間の流れと一致する。海軍を見てみろ、加納が人一倍秀才で、回転が速いから、本人は苛立ち、周りは付いてけず、結果、皆イエスマンだ。早過ぎて判らないんだ、何が如何為ってるのか、頷くだけで精一杯。」
何度も何度も頭を撫で、ごとりと剥製は音を響かせ、倒れた。何故か、其の目は、閉じていた。
「俺と御前の違いは、統率力。正直、驚いたよ。此処迄国民を、当たり前に従わすなんて。安心した。俺は軍を統率出来ても、此れは出来無かったから。でも…」
伏せる剥製の目を確認すると、龍太郎に詰め寄り、低く唸った。
「貴様を信じた、俺が馬鹿だった。」
其の言葉に龍太郎は背中に冷たい物を感じた。其れは、元帥の重圧其の物だった。
「俺は心底御前が嫌いだ。」
其の言葉。深く刺さる。昔云われた言葉ではなく、全く違う意味が篭っていた。
「俺が、まともな精神状態で、元帥の椅子に座っていたと思うか?」
龍太郎は顔を逸らし、首を振った。和臣は笑い、椅子に、其の元帥の椅子に座った。
「俺は、必死だった。軍を、国を守る為に、大事な物を無くした。人間として生きる事を、諦めた。」
指を机に滑らせ、歌う様に言葉を続ける。
「俺が、修羅になったんじゃない。此の椅子が、修羅なんだ。元帥という椅子が、な。」
其処で和臣は一旦黙り、深く息を吸うと目付きを変え捲くし立てた。
「貴様という男には心底呆れた。何が仏様だ、此の椅子は、修羅だ、仏が座れるものではない、貴様に元帥を任せた俺が馬鹿だった、井上一人居なくなった位で腑抜け、元帥が務まるか。良いか、貴様達が俺を鼻で笑い、暴君だ何だと貶す後ろで、俺が何んな精神状態だったか。必死だった、俺は自分の限界を知ってるから。全てを捨て、君臨し続けた。自分の為じゃない、此の国の為だ。此の国の為に修羅に為れないのなら、此の椅子に座る資格は無い、消えろ本郷、仏は此の国に必要無い。」
唸り声が、龍太郎の鼓膜を振るわせた。鈍い音を立て倒れた狼が、確かに四足で立っている。毛を逆立て、牙を剥き出し、唸っている。
此れが、修羅の道だ。
尋常でない事が自然に起こる、此れこそ修羅の道。
一歩、一歩狼が龍太郎に近付き、其の牙を向ける。喉元を食われる、そう思ったが、和臣が其れを止めた。
「待て待て。本郷を殺すのは、元帥である此の俺だ。」
冷たい其の目は、炯々と輝いていた。椅子から立ち、龍太郎の喉を触った。言葉が出ない程冷たい手。
「歩け。」
離された筈なのに、首が冷たい。自分の意とは反し身体が動く。
「座れ。」
雪の上に落とされたかと錯覚する其の椅子は、和臣の全てを吸い込み、冷たい。腕が張り付き、動けない。冷たい空気が身体を取り巻き、気付けば不適に笑う和臣の顔が目の前にあった。
「さあ、仏様。修羅の世界に、御招待しよう。」
其の目に、言葉が出なかった。
首を振ろうとした瞬間、脳味噌が氷の塊になる感覚を知った。無くなる感覚の中で、はっきりと聞こえた、修羅の声。

「元帥は、俺だ。」

――――――羅刹国、来たる。




*prev|1/2|next#
T-ss