ソメイヨシノの儚さを


其の男は、母の主治医の男だった。私の母は、精神を病んでいた。其れは子供の私の目から見てもはっきりと判る程。自分が同性愛者だと気付いたのはもうずっと昔の話で、彼の前にも一人、幼い乍らに恋をしていた。矢張り其れも、医者で、母の主治医だった。
彼は独逸帰りの男で、其の時の名前をセバスティアン・フーベルト・ダールマンと云う。日本人であるが、私は彼の日本名を知らず、ダールマン医師と呼んでいた。
私は、彼が母を診ている間、常に横に居た。彼に興味があったからでは無い。医学、と云うものに興味があったからだ。彼は其れを知り、彼が母を診始めて二年程してか私にこう云った。
一緒に独逸に行かないか。
自分で云うのもなんだが、私は頭が良い。彼は其れを良く知っており、飲み込みの良さから私にそう云ったのだ。しかし私は、彼の様に精神科医になりたい訳では無く、ずっと昔に恋をした男の様に外科医になりたかった為、一度は首を振った。すると彼はこう云った。
俺に付いて来るからと云っても、俺と同じにならなくとも良い。宗一は宗一の好きな事を学べば良い。
そう云ったので首を縦に振った。
しかし、互いに其の決意はしたもの周りが許さなかった。
先ず父親。絶対駄目だ、蛍を一人にし、時子に何かあったら御前如何する積もりだ、そう頭ごなしに拒否をされた。
次に母親。うちを一人にして、其れで平気なんか、そう涙乍らに云われた。
そして弟と妹。俺を一人にするな、だの、兄上が居て下さらないと困りますわ、だの詰まり私の周りの人間は、結局自分の事しか考えて居なかった。私の将来等、彼以外、誰一人として考えてはくれなかった。
周りの説得に一年費やし、父親が折れたので、私は彼に付いて行ける事になった。如何やって彼が在の父親を説得したのかは知らないが、私は晴れて独逸に行ける事となった。
十五の時であった。
其れから十一年、私は独逸に居る事になる。




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