ソメイヨシノの儚さを


此れが、私一人なら死ぬ事は容易であっただろう。けれど私の傍には外科医として最高の腕を持つ彼が居た。其れを考えたら、彼が私を助けるのは目に見えていた。
彼は、自分の手で私を殺す事はあっても、其処に死に掛けている人間が居れば助ける。其れが例え、死にたがり屋の私でも。矛盾しているとは判っていても、其れが彼の、医者としての本能だった。
目を開けた私を彼は見下ろしており、二回も死に掛けた気分は如何だ、と聞いた。だから私は、余り良い物ではないと答えた。
「馬鹿が。」
彼はそう吐き捨て、顔を逸らし紫煙を吐いた。其の言葉を聞いた時、私は何も感じなかった。彼の横に座るディルクが憤慨したというのに。
「結局御前は、何がしたいんだ…ソウイツを殺したいのか?生かしたいのか…?」
彼は煙草を消すと座り、ベッドに肘を付いた。
「死ぬなら勝手に死ね。俺は止めん。だがな、俺の目の届かない所で死ね。俺の目の届く所でそういう行為をしたら、俺は御前を助ける。俺は医者だから。」
折檻をし、陵辱し、殺そうと迄して、自殺し様とした私を助けた。彼と一緒に居て五年経つが、私は彼が判らない。私を自分の様な外科医にしたいの以外は、全く以って判らない。
涼しい顔で私を見る彼に殴り掛かったのはディルクで、其れを止めに入ったのはハンスだった。けれど何方が彼を殴っているのか、数分後には判らなくなった。
「ソウイツを此処迄追い込んで、其の当事者の言葉が其れかっ」
二人の声は良く似ており、此れを云ったのが果たして何方か、私には判別出来ない。
「御前は何処迄腐ってるんだっ。忘れたのか?御前が追放された理由をっ」
此の声ははっきりとディルクだと判った。彼の昔を知っているのは、此処に居る人間でディルク以外は居ないからだ。
彼はディルクを投げ飛ばすと頭を押さえて高らかと笑い出した。
「追放?俺が?何寝惚けた事云ってやがるんだ。追放命令が執行される前に俺は日本に帰ったよ。俺が又独逸に来た事を考えれば判るだろう?御前、馬鹿だなぁ。」
此処迄人を馬鹿にし、人を弄ぶ人間を私は知らない。高らかと笑う彼に一種の猟奇を感じた。謝罪もせず何時迄もふてぶてしい彼にディルクは吐き捨てた。
今度こそ、国外追放だ、と。
けれど彼は怯む所か一層笑い出し、やれるものならやってみろと挑発を始めた。
「誰も俺を止めらりゃしねぇんだ。今回は弟子をこうしたに過ぎない。軍だって動きゃしねぇよ。」
此の男は、完全に狂っている。
誰もがそう思った。
彼が日本に戻って来た理由。彼を慕う二人の幼女を、私と同じ目に遭わせたからだった。
こんな、人間とも云えない彼に、私は何も判らず付いて来た。ほとぼりが冷めたのを良い事に又独逸に向かった。
私を、医者にするという名目で。
結局私は、初めから彼に利用されていたに過ぎない。其れを知ると、死のうとした自分が馬鹿に思え、彼と同じ様に高らかと笑ってやった。
此奴を越える、医者になる。
私が医者になったのは、最早復讐に近かった。
馬鹿げた行為で私は左手の感覚を八割無くし、其れでも医者としての地位と信頼を持てたのは、矢張り彼の御蔭でもあるのだ。
私が此の馬鹿げた行為をし、二十歳と云う年齢もあるのだろうか、其の日以来、彼から折檻等は受けなくなった。
其れから六年経ち、私は医者として、日本の地を踏んだ。
日本に戻った理由。至極簡単で、今度こそ彼が、独逸からの国外追放を受けたからである。
馬鹿な先生。
追放令を受けた彼に私はそう云った。
別に私迄日本に戻らなくとも良かったのだが、如何せなら、此の私の噂を、嫌でも彼の耳に入る場所に居たかった。
そして私は、日本で彼以上の地位を此の手にした。日本国最高の、神の手を持つと謳われる外科医師、近衛清十郎に並ぶ外科医として、医学界に君臨したのである。




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