ソメイヨシノの儚さを


目覚めた時に彼の顔が無いのは初めてだった。ぼんやりとした視界で天井を眺めていた。月の明かりだけが天井に差し込み、部屋の隅は真暗だった。私は、此れから自分が如何なるのだろうと、戻れば今以上の折檻は確実だった。日本にも自分の居場所は無い、独逸にも居場所は無い、なら何故自分は生きているのだろうと、何の為に生きているのだろうと、月の線を見ていた。すると其れが突然恐ろしくなり、自分の意味が判らなくなった。此処を出れば又彼から殴られる。途轍も無い恐怖を感じ、私はベッドから跳ね起きた。ぺたりと、足の裏に知るリノリウムの冷たさ。此処が何処だか知っている私は、暗闇の中に足音を向け、鍵の掛かる戸棚の硝子を割った。意外と大きな音がし驚いたのだが、誰も来ず、私は棚の中から小さな木箱を取り出した。其れは医学生達が使う医療器具が入っている。其れを持ち、又ベッドに戻った。月の明かりで箱の中を照らし、ピンセットの横に寝るメスを持った。揺らすと刃に月明かりが反射し、とても奇麗だった。奇麗で、奇麗で、とても奇麗で、普段持つ持ち方とは違う持ち方をした。指では無く拳で握り締め、其の刃先を自分の腕に突き刺した
。すんなりと腕の中に入り、そうだ此の侭引けば良い、頭の中で声が反響し、奥迄入れた。指先に強烈な痺れが来、其れなのに、全く痛みが無い。痺れが来るのだから神経は未だ繋がっているだろうに、何故だろうと、流れる等と生易しいものではなく溢れる血を眺めた。メスを抜いた時、血が吹き出た。動脈が切れたのだと知り、暫く其れを眺めていると案の定眩暈が来た。布団はぐしょぐしょに濡れ、良くこんな細い場所から此れだけの血が出るなと感心さえした。ふらふらした足で何故か私はベッドから下り、がくんと力が抜けた。持っていたメスは手から離れ小さな音を出した。リノリウムの床は冷たく、うつ伏せの状態で倒れ、血の臭いが顔に近付く。
其の時私は、蝶を見た。
真赤な蝶が、床に飛んでいた。
とても奇麗で、其の蝶を捕まえ様としたが、捕まえる前に私は無数の足音に囲まれた。




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