Haken-kreuz


ハンスの家の壁に貼られる国旗を侑徒は眺めて居た。国旗其の物が貼ってあるのは特に気になる事では無い。唯、眺めて居た。
ハンスが帰宅し、気になるのなら剥がすよ、と云ったので首を振った。
其処で何故会話が成立するか。侑徒は独逸語が判らない筈である。
「日本語、御上手ですね。」
「内緒な。」
人差し指を口に付け、ハンスは笑う。
実はハンス、日本語を理解し会話も出来る。黙っているのは都合が良いからであると話す。
先日の、時一と珠子の“珠子だから卵が好き”と云う会話も勿論理解して居たが、判らない振りをした。隠す必要は何処にも無く、他国の言葉を使うと云う処罰対象にもならないのだが、ハンスは誰にも話して居ない。
日本語を知った経由、詰まり宗一も其れは知らない。侑徒に日本語で話し掛けたのは、苛々し始めたからである。
二人が独逸に来て二週間、二人は其の間ハンスの家に居る。始めは独逸語で話し掛けて居たのだが、医学用語しか理解出来無い侑徒に苛々し、掃除をして、と日本語で伝えた。此れが宗一であれば、此の野郎、理解して居たのか、と笑い乍ら蹴られる処であろうが、侑徒は、はあ判りました、と人形の様に首をかくんとしただけである。宗一に知られたであろうかと思ったが、侑徒が其の事実を話して居ないと判り、こうして日本語で話している。
唯、薄々と宗一は気付いて居るが、二人の会話は独逸語なので意味は無い。
「今日は何をした?」
「海に行きました。」
「楽しかったか?」
「へえ、まぁ…」
ぽっと頬を赤く染め、侑徒は俯いた。横目で其れを確認したハンスは含み笑い、国旗を見た。
「俺はてっきり君達は、恋人同士なのかと思って居た。」
「え?」
「なのに二週間、ちっとも何もしない。等々不能か、宗一は。」
「矢張り、先生ぇは、ゲイなんですか…」
侑徒の言葉にハンスは瞬きを繰り返し驚いた。
「一寸待て、知らないのか?」
「はい。」
何てこった、とハンスは額を押さえ、眉間を撫でた。時一の時がそうであった様に、侑徒も其の目的の為に連れて来たとばかり考えて居た。唯、違うのは侑徒は既に医者であると云う事。
医学留学にしてはおかしいなと疑問に思っていた。独逸に来て二週間経つが、宗一には一切医者の様子は無く、自分が医者であるのを忘却している様にも見えた。成程合致した。
本当に、時恵の遺骨を届けに来ただけの様である。
「君は、医者何だよな。」
「はい、駆け出し、ですが…」
「少し、勉強してみるか?」
対象は幾らでも居る、と不謹慎な事を口走る。出来る事なら是非、と云いたい処だが、異邦人の自分に其の対象を貸して貰えるか侑徒は不安であった。そんな気持を察したハンスは、侑徒の頭を撫でると、俺は此れでも此の国の三番目の地位に居るんだ、と笑って見せた。
けれど未だ不安はある。宗一が許可をするか否だ。
幾ら侑徒が望んでも、保護観察者の宗一が首を縦に振らなければ軍の許可が下りない。
無理であろうなと侑徒は溜息を零し、けれど提案者はハンス。侑徒が心配する事は無い。
「其れに俺も、一応医者だしな。尤も、医療に携わる事は無いけれど。ルートヴィヒに話を付けるよ。」
良く忘れられるのだが、ハンスは医者の息子で、尚且免許所持者だ。一切其の行為をしないのは、軍の方に面白さを知ったから。人を助ける立場より、如何に効率良く患者を“利用出来るか”を考える方がハンスには合っていた。其れに魅力されたのが、総統閣下並びにルートヴィヒであった。そう考え始めたのは、宗一が要因と云える。
二十年前、神の手を使い時一の顔を修正した。在の、医者としての執念と誇りを持つ宗一の姿にハンスは全く逆の事を考えた。
其処から、実験対象と実験者を考え始めた。ハンスの少しの考えが、ルートヴィヒの元来あるサディスティックを刺激し、在の天使を生み出した。
最先端の医療技術を持ち乍ら完全に歪んだ此の独逸で、宗一が医者として動かないのは云う迄も無い。医者としての誇りに此の独逸は、牙を向けたのだから。
小さな侑徒の頭からハンスは手を離し、薄く笑った。
其処に宗一の咳払いが聞こえ、ハンスは飛び上がった。
「止めろよ、ハンス。日本語の方が良いか?」
二人の会話を完全に聞いていた宗一はハンスを睨み付けると侑徒の腕を引いた。
「此奴を黒くするな。」
「豪く過保護だな、ソウイツ。トキイツとは打って変わって。」
「喧しい。」
二人の剣幕に、言葉が判らないのも加わり侑徒は狼狽を見せた。宗一の袖を引き、ハンスの申し出に応える事はしないと云ってはみたが、宗一の怒りが収まる事は無い。
「俺が居ない間に、勝手に話を進めるな。ユウトの保護者は俺だ。其れに話を通さないのは筋違いじゃないか?アスク中将。」
「悪かったよ。ユウトも暇だろうと思って。」
決して、時一と同じにする積もりでは無かったとハンスは謝り、けれど宗一は溜息を零しただけでハンスを許しはしなかった。
「此の、今の独逸は、二週間見て来たが、唯の糞の溜まり場だ。俺達が憧れた独逸じゃない。」
達、と云うのは宗一自身と時一を指す。しかし、糞と貶す人体実験が無ければ独逸が此処迄医学発展しなかったのも事実である。宗一も確かに実験を繰り返し、そして医者になった。だからこそ怒りが湧いた。
「御前達がやってるのは、唯の拷問だ。発展対象は“患者”であり“モルモット”では無いんだ。何時から、こんな国になった…。俺の愛した独逸は…何時から腐り始めた…。何時から独逸は医学で人を殺す様になったっ」
答えろ、と宗一はハンスの両肩を掴み、激しく揺さ振った。
「俺達医者は、命を助ける為に存在するんだろうっ?死の天使だ破壊の天使だ、天使なら助けろっ。自分達に都合良く解釈するなよっ」
「判ってる、判ってるさ。けれどもう引け無いんだっ。こうする事でしか俺達は前に進めないっ。此れが独逸だっ、今の独逸だっ。此れ以上の暴言は、認めない…」
「暴言?暴言だと?正論が暴言なのか?」
「ソウイツの云ってる事は医者としては正しい。ルートヴィヒの暴走を止められなかったのは俺が悪い。けれど、其の正論を捩曲げるのが、今の独逸何だ。医者としての正論は、此の独逸では通用しない…。頼む…、此れ以上云わないでくれ…」
で無ければ連行する、とハンスは項垂れた。
ハンスから手を離し、宗一は乾いた笑いを遠くに向けた。
「間違っているのは世界だ、か。よぅ云うわ。アロイス…」
くつくつと笑い、目頭が不自然に濡れていた。
「先生ぇ…」
怒りをぶちまけた宗一は落ち着きを戻し、侑徒に小さく笑い掛けた。
「何や。」
何時に無く優しい声に、状況は飲み込め無かったが傷付いているのは理解出来た。宗一の震える頬に手を置き、心配そうに垂れた目を揺らした。
「泣かないで下さい。」
「泣いてへんわ。」
「嘘。心で泣いてる癖に。」
宗一を見上げる侑徒の姿に時一が重なり、ハンスは唇を噛んだ。
「日本に、戻れ…。今なら未だ間に合う…」
侑徒が此の独逸に染まる前に、時一の二の舞になる前に。
しかし宗一は薄い笑みを浮かべ、鼻で笑った。
「後には引けへん。せやろ、ハンス。」
ハーケンクロイツにキスをする。此れが独逸で医者として死ねる唯一の方法。二週間の沈黙と葛藤の答えは“Heil”だった。




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