Haken-kreuz
ルートヴィヒの機嫌が良い。アリアの旋律は何時も以上に滑らかで美しいのだが、時一は気味悪さを感じる。ルートヴィヒに対する気味悪さは今に始まった事では無いが、何時も感じる気味悪さは残酷さから来る物であり、機嫌の良いルートヴィヒは不気味以外何も無かった。
「気持悪い…気持悪い…。アルツト メンゲレ気持悪い…」
此の精神状態、判るであろうか。時一ですら怯える状態で、モルモット達が怯え無い訳は無かった。
「ハンス…、気持悪いよ…」
「失礼だな、丸で俺が気持悪いみたいじゃないか。」
「ハンスも気持悪いや…」
「何だと?此の男前に何て事云うんだ。」
「あっはっはっは。楽しいねえ。」
二人の会話にルートヴィヒは笑い、大好きなショコラーデを口に入れた。
ルートヴィヒの機嫌が良いのにはきちんと理由がある。理由無く不機嫌になる人間は居るが、理由無く上機嫌になる人間は存在しない。存在した場合、其れは病気である。
未だか未だか、と天使の羽は左右に揺れ、誰かを待ち望んで居る雰囲気であった。時一は此の時未だ聞かされておらず、開かれたドアーに立つ人間に目を見開いた。
「ルートヴィヒっ」
「あっはーっ、先生っ。会いたかったっ」
「御前っ、許さんぞっ」
行き成り現れた宗一にモルモット達は一層怯え、時一は顔を引き攣らせた。
黒い軍服の上に白衣が肩から掛かり、袖と裾が揺れる。ルートヴィヒの肩を掴み、前後に振るがルートヴィヒは何故か笑っている。
「何が右だっ。思い切り一周しただろうっ」
「嗚呼、私から見て、右だった。」
「此の野郎っ。此の糞っ糞野郎っ」
「止めてぇ、脳みそ出ちゃうわぁ。糞になる。」
ルートヴィヒの機嫌が良いのは宗一の所為である。在の大戦の時、日本人であり乍ら軍に名前を残した宗一が、ルートヴィヒは憧れで仕様が無かった。医者として掛け出しだったルートヴィヒにとって宗一は、雲の上の存在で、正に神様だった。目の前で見た宗一の動きはマエストロに見え、差し詰めメスは指揮棒だ。
宗一の指揮でアリアを歌う、故に機嫌が良かったのである。
「私の為に独逸に来たのね、先生。」
「絶対違う。」
勘違いのルートヴィヒに宗一は切れ良く首を振り、煙草を咥えた。そして後ろに向かって手を動かした。
「此れ、弟子。」
ドアーからひょっこり頭だけを出す侑徒に時一は唇を噛み、視線が合うと顔を逸らした。
「僕、此奴嫌いっ」
「そう云いなや、時一。」
「ヨーゼフっ、僕はヨーゼフっ」
がっがっと靴鳴らし、其の音にモルモット達の恐怖が限界に近付く。侑徒に顔を近付けると、出て行け、そう云ったが生憎独逸語だったので、侑徒は、はあ、と小さく首を下げた。
「先生ぇ、アルツト ゲーテは何と…」
「歓迎するよ。」
「嘘吐けよっ、宗一っ」
明らかに表情と言葉が一致していないのにも関わらず、宗一は飄々と法螺を吹いた。にやにやと侑徒達から顔を逸らし、ルートヴィヒを見た。
モルモットを見る様に侑徒を見る、其の冷たいサディスティックな笑み。
「彼の名前は?先生…」
「侑徒。」
「ん?」
一瞬だけしか宗一の口を見ていなかった為、其の名前が判らずもう一度聞き直した。
「侑徒。判るか?」
蛇の目で宗一の口の動きを見、繰り返した。
「ユートン…?」
「ニュートンみたいに云うなよ。ユウト。」
「ユートンっ」
違う、と訂正するのも面倒臭い程ルートヴィヒは明るく、ユートンでも良いかと頷いた。
「橘、今日から御前はユートンになったわ。」
「ユートン?」
「あっはっは。ユートンっ。格好悪いっ、僕はヨーゼフだっ」
「済みません…、判りません…」
独逸語で侑徒を馬鹿にするだけ馬鹿にした時一は満足したのか、白衣を翻した。
「ようこそ、破滅の帝都・独逸へ。天使一同歓迎するよ。」
日本語で云った。
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