羽の消えた天使
彼の視力が日に日に低下してゆく。勝手の判って居る家の中でも、少しでも場所が変わって居たら足に当たった。
宗一さんが気休めにしかならないけれどと、赤みを抑える薬を調合してくれた。彼には其れが嬉しいらしく、鏡を見る度赤みが引いて居る事に笑って居た。眼球は不自然に赤いけれど、瞼の腫れは無く、自然な色をして居る。
「ねえ、珠子さん。」
目を細めテーブルに置かれたカップを探す彼に静かに渡した。
「何かしら。」
「僕が死んだら、如何します?」
私は至って冷静で、動揺さえしない。そんな自分に少し嫌気が差した。
「さあ、悲しいかしら。でも、人は死ぬものよ。どんなに愛して居ても…」
其の言葉に彼は前を向き、桜色の布に包まれる箱を見た。
ロッテが居ない此の日はとても静かで、私達は初めて夫婦として静かな時間に居る。
独逸に来て直ぐは彼が忙しく、恵御が生まれた。宗一さんが日本に帰国し、ゆっくりする暇も無く恵御中心の時間を十三年間続けて居た。
安息と云う言葉が似合いそうなゆったりとした静かな時間。
此れが最後かも知れないと、珈琲を飲んだ。
「愛してるわ…」
彼の視線を感じ、柔らかなキスを貰った。
「だったら…」
私の好きな肉厚な唇の動きに目を細め、寂しそうな目を見た。
「一緒に死んで下さい。」
当たり前な挨拶の様に云う彼は冷静で、矢張り私も冷静だった。唇同士を付けた侭、首に彼の体温を知った。じっとりと熱く、私の肌に良く馴染む。
「嫌よ。」
「酷い。」
「貴方が死んだら、私は日本に“戻る”わ。」
其処で彼は狼狽の色を見せた。
一瞬だけ目が見開き、視線を落として居たけれど其れは確かに見えた。
「恵御の傍に、居るわ。」
彼の忘れ形見を、私には守る義務がある。だって、彼を愛してるのだから。
其れに、と私は続けた。
「貴方が一緒に死ぬ相手は、私じゃないわ。」
「誰?」
「宗一さんでしょう。」
顔に彼の息が掛から無くなり、私は視線を上げた。放心した状態で、写真立てが並ぶ方向を見て居た。
多分、泣いて居るのだろう。涙の出ない彼の変わりに私は泣いた。彼が、私の足の変わりである様に。
私の涙では、決して無い。
「珠子さんと、一緒になれて、本当に良かった…」
「未だ云わないで…。こんなに…愛してるのに…」
彼は貪る様に私の唇を奪い、強く私を抱いた。
私は泣いて居た。彼が居なくなる事を身体で感じたから。
其れから一ヶ月、時恵様が亡くなった丁度二ヶ月後、私は日本に戻った。
彼の、菅原時一の忘れ形見の傍に。一人で。夏の暑い日だった。
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