羽の消えた天使


時一の目が完全に駄目だと知ったルートヴィヒは、カルテを開きペンを動かした。


――以上の量での結果、暫くは見えるが完全に視力を失う。
――点眼直後の眼球、及び瞳孔色は、元が黒色の場合紺色。一週間程で水色乃至灰色に落ち着く。
――視覚が歪む等の障害が生じるが、日常生活に支障は無い程度。

他に未だあるだろうかと、ペン先を顎に付け天井を眺めた。人一倍神経を尖らせ、聴覚を補うルートヴィヒだが、余りに意識をカルテに向け過ぎて居た。真後ろに立つ宗一の気配に全く気付かず、顎を掴まれた。
頬に荒い息が掛かり、視線を向けると、歯軋りをして居るのか動いて居る口元だけ見えた。
「何か用、先生。」
ペンを机に置き、両手を静かに上げた。
「時一さえも、所詮御前にはモルモットか…」
宗一の言葉にルートヴィヒは息を吐き、視線を反対側に向けた。
「其の中身は?」
首に当たる注射器から微かにする刺激臭。
「俺の質問の答えが先だ。」
「答えに依ってはぶすりですよね。」
宗一は少し笑い、針先を少し刺し入れた。首に鈍い痛みが走り、ルートヴィヒの考え通りの液体であるのは間違い無い。
「判った。判りました。答えますよ。」
ゆっくりとルートヴィヒは口を動かし、薬品の点眼を強要した覚えは無いとモルモットの否定した。
「確かに、薬品で色素を抜く事を考えたのは私です。けれど其れをヨーゼフに頼んだ事は一度も無い。彼が自らの意識でモルモットになった。私は止めたよ。其れは支配下のモルモットにする予定だから。其れで、其の中身は?」
「漂白剤。」
「嗚呼、やっぱり…」
渇いた笑いを向けるが宗一の顔は無表情で、未だ答えが足りないのかとルートヴィヒは唾を飲んだ。
「本当ですよ、嘘じゃない。カルテにも記入してる。勿論、ヨーゼフ本人がね。」
カルテの一番最初を開き見せ、其処には確かに時一の文字が並んで居る。最初だけでは無い。ルートヴィヒが先程書いた場所以外全て時一の文字で埋まって居た。自ら選んだ此の事実に宗一は静かに頷き、針を抜いた。垂れた血を薬指で掬い、眺めたルートヴィヒは眉を顰めた。
「私も人間何だ…」
他人の血ばかり見て来た所為で、本当に自分の血が赤いのか、時折ルートヴィヒは考える。
「そうさ、御前は人間何だよ。天使でも悪魔でも無い、人間。」
「そう、だね…」
自分が人間である証拠を愛おしそうに唇に付け、俯いた。
証拠はあるのに、戻る道が判らない。人間に戻るべきか、天使として進むべきか。考えても仕様が無い、答えは判り切っている筈、なのに何故こんな嘘臭い証拠に踊らされるのか。
血の靴跡が染み込む床板は汚く、木目の壁も褪せていた。
奇麗だった此の部屋が、何時の間にか汚く変化している。
何時からか。自分が天使と呼ばれる様になってから。
埃が周りを囲む電球を眺め、舞う埃が天使の羽に見える。
ルートヴィヒは強く目を瞑り、苦しそうに息を吸った。血と埃、黴の味しかしない空気は矢張り人間の住む場所では無いと再確認した。
「進むしか道は無いんだ。私達は、天使で居なければならない。祖国の為に。」
「時一は…」
「ヨーゼフは天使だ。例え、目が見えなくなろうとも。」
宗一の声に重なったルートヴィヒの言葉は、此の空気の様に重たかった。




*prev|2/3|next#
T-ss