Treue-忠誠


強く握られた手の暖かさに時一は顔を歪めた。
「ヨーゼフ…」
完全に焦点の合わない時一の目は目の前に居るクラウスを通り越し、奥を見て居た。
「元帥…」
「こんな…」
座る時一の膝に頭を乗せ、クラウスは涙を我慢した。
此の国に全てを捧げた人間は必ず壊れる。在の時もそうであったのに、クラウスは完全に忘れて居た。今更思い出す方程式に言葉は出ない。
時一が最後に見た顔は誰なのだろうと気になり、けれど聞け無かった。宗一だと、何処かで判って居た。
「ヨーゼフは…」
頭を撫でる時一の手が気持良く、思う事を聞いた時此の手が消えるのでは無いかと足が震えた。何時迄も続きを云わないクラウスに時一は笑い、そっと頭にキスをした。
「口が良い…」
「良いよ、して。」
触れたクラウスの唇を確認した時一は、其の侭身体を引き、一緒に床に倒れ込んだ。荒々しくキスを交わし、無意識にタイに触れて居た事に時一は自分で驚き、慌てて身体を剥がした。
「ヨーゼフ…?」
「駄目…」
何故、とは流石に聞けず、クラウスは立ち上がると時一を椅子に座らせた。
机に広がる薬瓶と調合用具。薬紙に匙が置かれて居るのを見ると調合の途中だった様で、クラウスは拒まれた理由を其れに無理矢理決定した。
「良く判るな。」
「瓶の形と、匂いだね。」
「分量は?」
「其れ位、身体が覚えてる。」
くすりと笑い、慣れた手付きで調合してゆく。
静かな空気はクラウスを動けさせ無くなって居た。
「俺の事は…?」
「ん…?」
振り向いて居るのに見てくれない。
「調合だけなのか?身体に染み付いて居るのは…」
下らない嫉妬に吐き気がした。初めから自分の物で無いのは理解して居た筈なのに、身体を重ねる度自分の物だと勘違いした。して居たかった。
時一が望む事では無い不本意な関係だと理解して居るのに、誰も肯定等してくれ無い此の関係を、今更真実の思いだと錯覚した。
「俺は、君を愛しているんだ…」
光を失った目ははっきりとクラウスを見て居た。咎める様に、真直ぐに。
「冗談じゃない…」
「冗談な物か…」
「そんな事を云われても、僕は貴方を愛せない。」
「だけど俺は…っ」
震えた唇を見た侭クラウスは引っ叩かれた。
此れが時一の本心だと、逆上せて居る自分に嫌気が差した。
何でも手に入る、何でも好きに出来る、なのに一番欲しい物は手に入らない。時一もクラウスも知って居る。其れを忘れて居た。
「始めに云っただろう、僕の事は決して愛さないと。」
「俺を、見てくれ、ヨーゼフ…」
もう一度クラウスは叩かれ、血の味を知った。
「触れるな…僕に触れるな…っ」
机の上にある全ての物を投げ付け、喚くがクラウスに対する嫌悪は拭えず、ドアーに向かった。
嫌だと、在の時はっきりと云った。クラウスは自分の上に立つ人間で、決して対等になるべきでは況してや下になるべきでは無いと。無理矢理持たされた関係に、悲鳴が出た。けれど其れでも良いと思って居た。
自分を見てくれて居るのなら。
けれどクラウスが見て居たのは自分では無い、容姿が良く似る昔の恋人。そうはっきりと確信した時からクラウスへの忠誠は消えて居た。
「関係を、世間に云うぞ…」
「其れが本心なら、今此処で殺す迄だよ。」
ヨーゼフ、と頭に叩き付けられた名前は自分では無い。確信した時一は今此処で消される事を瞬時に悟り、ドアーを開け助けを求めた。確かルートヴィヒが居た。悲鳴は微かに聞こえると云う、其れに縋るが正直聞こえるか疑わしい。ルートヴィヒの居る部屋は離れ過ぎて居る。矢張り届か無いのか居ないのか反応は無く、暗い廊下に消えるだけだった。
「殺される…」
掠れ始めた声にクラウスは少し笑い、其の声が豪く大きく聞こえた。
中に引き摺られまいとドアーに縋り付くが、声も手も限界だった。
がくんと引かれ、耳元で荒い呼吸を感じた。知らない体温で、其れも又恐怖だった。
「大将閣下っ」
甲高い声に力が抜けた。足から一気に凍り付きそうなリノリウム床の冷たさを足で知り、呼吸を繰り返した。
「御止め下さいっ」
「橘…」
通りで体温を知らない筈だった。守る様に確りと時一を抱き締め、クラウスを睨み付けた。
耳元で喚かれる日本語、とても安堵したのは確かだった。苛立ちを隠す様にクラウスは笑い、長い腕を伸ばすが侑徒は首を振った。
「渡し為さい。」
滑らかにクラウスの口から通る日本語に侑徒は一層の恐怖を知り、腕に力を込め、両足で時一の身体を挟んだ。
「嫌です。」
「命令に従え。然も無くば、異邦人排除令を君に下す。アルツト タチバナ。」
「結構です。其れでアルツト ゲーテが助かるのなら。」
全く怯む事無い侑徒にクラウスは舌打ちし、荒く靴音を鳴らした。暗い廊下にクラウスの姿は消え、其れを確認した瞬間侑徒は恐怖に身体を震わせ始めた。力の抜けた腕から時一は這い出、手探りで自分を探す手を侑徒は掴んだ。
「アルツト ゲーテ…」
「無茶をするな…、此の馬鹿…」
茶化し、気丈に振る舞う時一だが、其の顔は恐怖に固まって居る。上手く笑えない時一は俯き、自分の最期をはっきりと知った。
「クラウスは…」
無意識に出た日本語。
「本気だ…」
「本気…?」
「僕を殺す積もりだ…」
「まさか…」
幾ら何でも其れは無いであろうと侑徒は笑うが、クラウスの性格等知らない。唯、逆上した人間がどんな行動に出るかは把握して居る。自殺をするか、逆をするか。
クラウスは後者に違いない。其れは侑徒にも判った。クラウスは独逸の勝利を見ると決めて居る。国に全てを捧げたそんな人間が、色事で死ぬとは考えられない。
では一体誰を。
時一を、いや、違う。だったら…。
行き着いた答えに侑徒はさっと青褪め、俯く時一を無理矢理背負った。行き成り動かされた時一は狼狽し、下ろせと喚き立てた。
「煩いわっ」
廊下に響いた宗一に似るアクセントに時一は身震いし、黙った。
「珠子夫人が危ないわ。」
「え?」
「元帥は、珠子夫人を殺しはる…」
拒否をされたのなら其の根本を絶つ。戦争をする人間、況して元帥であれば其の考えに容易く辿り着く。二人の考えは全く同じで、時一は喉元を強く締められた。吐き気に襲われ、何度も唾液を床に捨てた。
地下から地上に上がると、驚いた顔で二人を見る宗一とハンスが居た。普段表情の無い侑徒の顔は怒りに歪み、自分より体重のある時一を背負って居た事も伴い、真赤になって居る。
「先生ぇっ」
尋常で無い侑徒の声に宗一は瞬きを繰り返し、首を傾げた。
「何や…?」
珠子が危険だ、と云うより先に時一の怒号が響いた。
「クラウスは何処だっ」
「クラウス…?クラウスならさっき見たぞ。あっちに行ったかな。なあ、宗一。」
「せやなぁ。車乗るん違う?」
暢気な二人の声に侑徒は下唇を噛み、時一を落とさない様ゆっくりとしゃがんだ。太陽の熱を蓄えた地面に足を付けた時一は、弾かれた様に走り出し、侑徒の手を引いた。
「トキイツっ」
無謀に走り出す時一を遮り、ハンスは怒鳴り立てた。
「目が見えないのが判らないのかっ。自殺行為だぞっ」
「Schweig!」
白濁の目と義眼にハンスは怯み、押し退けた処を宗一に又遮られ、苛立ちが募り無言になった。
「順を追って話しなや。」
時一に話す気は怒りで完全に失せ、早口で捲し立てる侑徒が説明をした。状況を把握した二人は無言で、けれど表情は異なる物だった。ハンスはクラウスの行動を予想していたのか、来るべき時が来たのか、と云う暗い顔で、宗一は無表情に唯状況を理解し頷いて居た。
「判たわ。」
顔を隠すハンスは目を流し、宗一の言葉を待った。
「状況を知らへん冷静な判断が出来る人間が必要やわ。うちが行く。」
呆れを隠す様に言葉を漏らし、視線を斜め上に流した。
「俺も行く…」
止められ無かったのは自分の責任だと、責任感が人一倍強いハンスは口を開いたが首を振られた。
「ハンスは完全にクラウス派や。冷静な判断が出来るとは思やしへん。」
「俺だって時一は大切さ。勿論珠子だって。」
「ほんならなぁ聞くがアスク中将、“元帥”に時一を殺せと“命令”されはったら、躊躇いはするけど引き金、引きはるやろう?」
「其れは…」
ハンスは言葉を濁し、口を触った。
「判らない。」
「尚更、連れては行けへん。」
時一を殺そうとした前科もあるしな、と余計な事を云い、笑った。
「でも先生ぇ。人数は、多い方が宜しいんと違います?」
時一を支えて居た侑徒は眉間に皺寄せ云った。普通ならそう考えるが相手が相手だ。
「そやかてな、ハンスは何時寝返るかも知れへんねや?危ないわ。」
「其の時は…」
地面を歩く蟻を見た侑徒は、其の黒さに自分を重ね、持っている餌諸共踏み潰した。始めから存在して居なかった様に何度も靴を地面に擦る。
「俺が彼を殺して、モルモットになりますわ。」
真白い肌に絹糸の様な真黒い髪が掛かり、信じられない艶を宗一は感じた。
「アルツト ゲーテが消える事は、俺が許しません。」
自分は時一に嫌われて居る事、充分に知って居る。けれど侑徒は時一を嫌いになれず居る。
「好きな人の好きなモノは、守りたい性分でしてね。」
関心を逸らすモノを消すクラウスの様には生きれ無い。不器用でも惨めでも報われ無い恋でも良い。
「貴方が笑って居られるのなら、俺は堕ちましょう。」
モルモットになる準備は出来たと、時一の手を引いた。
二人は無意識に重ねた。好きな人間の笑顔を守りたいと、自ら修羅の道を選び、消えた人間と。




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