Treue-忠誠


少し時間が長かったわね、と出来上がった固いクッキーをロッテと珠子は食べて居た。
「色は完璧よ、なのに何故顎が外れそうな程固いのよ。此の間のパウンドケーキは炭と化したし、私って菓子作りの才能無いのかしら。」
手で割る事さえ困難なクッキーを無理矢理割り、飛んだ欠片に顔を顰める。
「でも在れは美味しいですわ。ほら、在れ。」
在れ在れ、とロッテは険しい顔で指を動かす。形容するが中々伝わらず、白くて丸い黒い在れ、と白いのか黒いのか色さえあやふやだ。ロッテの頭にはきちんと味さえも判って居るが、珠子には全く伝わらない。百面相をする度に左右の肩から奇麗に流れる三つ編みが楽しそうに揺れる。
「白が丸いの?」
「白が丸いんです。」
「黒は丸く無いのね?」
「いえ、丸いです。」
「ええ…?」
丸と云うよりは楕円、益々理解出来無いがロッテの姿は面白い。馬鹿にして居る意味では無く、微笑みましいのである。馬の尻尾の様に三つ編みはぐるんぐるん揺れ、答えに辿り着きそうに無い。
「黒いんです、でも白いんです。むにゃむにゃと…」
「もう判らないわ、ロッテ。」
笑って珠子は珈琲を飲み、椅子から立ち上がるとロッテの肩を叩いた。此の状況も楽しくて良いのだが、失敗したクッキーの代わりを用意しなければならない。
「時一さんが戻る前に買い物よ。」
「はい、奥様っ」
眩しいロッテの笑顔に珠子も釣られた。
ロッテは赤毛で、後ろ姿が珠子と良く似て居る。姉妹みたいだねと云われるのが、一人っ子の珠子には嬉しい。ロッテは云われる度首を傾げるのだが。
クッキーの代わりにドーナツを買い、序でに花も買った。此の二つを買う前に洋服を買ったのは勿論だ。時間にして四時間、珠子の買い物に対する執念は凄まじいが、其れに嫌な顔一つせず寧ろ楽しんで居るロッテも凄まじい体力を持って居る。
今の内に買えるだけ買うの、何時高騰するか判らないから。
在の時の時一と全く同じ事を云って居るが、珠子は死では無く、今以上の物価高騰を恐れて居る。
大好きな卵の値段が半端では無いのだ。其の内財政は破綻し、物価の超高騰は目に見えて居た。
小麦も卵も砂糖も何もかも毎日値段が違う。下手すれば朝と夜で違う。其れを珠子は一瞬で無駄にし、鬱憤を買い物で気を紛らわせた。
「見て、ロッテ。此れ貴女に似合うわ。素敵っ」
器用に身体を支え、洋服をロッテの身体に当てる。店員からも似合うと云われ、少し照れ笑った。
石油の高騰で洋服迄高い。国家が財政破綻する前に、我が家が財政破綻しそうだ。
「戦争には勝って居る筈なのに何故よっ」
試着したロッテを一瞥した珠子は店員に首を振り、確認した店員は一礼した。着て居た洋服を箱に詰め、値段を切った。
「奥様っ?」
「何故よっ」
試着しただけでそんな積もりは無かったロッテは狼狽したが、そんな声は不満に消された。
「異常よっ此の物価の高騰はっ。卵も買えやしないわっ」
椅子に座り杖を振り回し喚いた。丸で朦朧爺が杖振り回し支離滅裂に見えない敵と戦って居る様な状況だ。けれど珠子にはきちんと敵が居る。そして美しい。誰も変人だとは思わないのだ。
「誰よっ、卵の値段を必要以上に上げて居る馬鹿はっ」
卵に対する情熱は凄まじいのだが。
「私は卵が食べたいだけなのにっ。茹卵に目玉焼き、炒り卵にだし巻き卵に卵焼き……。嗚呼っ黄色が素晴らしいっ。此の侭高騰し続けるのなら雛を食べてやるわっ」
「奥様其れでは卵が出来無いので、一層高騰するのでは…」
「其れは困るわ。止めましょう。」
ロッテは想像したのだ。此の人形が生きた雛鳥をばりばりむしゃむしゃ、血を垂れ流し食べる姿を。
こんな、卵一つで半狂乱になって居る姿、屹度先生は御存じ無いに違い無い、此れは自分の胸にだけ仕舞っておこう。そうロッテは強く頷いた。
そんな事等知らず、案の定クラウスは家に来て居た。奇麗に手入れされた庭を暫く眺め、一輪だけ咲く愛らしい花を踏み潰した。ぐちゃりと今迄其の華麗さを誇って居た花は醜態をクラウスに晒し、執念か少し頭を起こした。又其れもクラウスには気に食わなく、念入りに踏み潰した。土と一体化した花に数秒前の華麗な姿は無い。もう直ぐ彼女も同じになる、と全くの無表情で笑った。
呼び鈴を鳴らしたが反応は無く、耳を欹て中の様子を伺ったが無人と判った。三十分待ったが帰って来る気配は無く、警告の意味も込め、ドアーの覗き窓に銃口を向けた。
小型銃であった為周りの騒音に消され、覗き窓にはレースのカーテンが引かれていた。渇いた音を立て硝子は割れ、カーテンには穴が空いた。
満足はして居ないが恐怖は感じるだろうと踵を返した。
入れ違いに時一達の乗る車が家に着き、変わり無い静かな家に時一は一先ず安堵した。
ハンスが庭の花に気付き、クラウスが来た事は間違い無い、或いは居る事を想定し銃を出した。ドアーに触れた時、ふと時一は顔を上げた。家にある筈の無い匂いを感じ、恐る恐るノブから手を上げると覗き窓がある場所に指を置いた。するとすんなり奥に進み、レースの織り目を感じた。
「え………?」
小さく漏れた時一の声に侑徒は顔を上げ、見ると硝子が無かった。
「先生ぇ。」
門の近くに居る宗一に硝子が割れている事を知らせ、のんびりとした侑徒の声にのんびりと首を動かした。普通の光景では無いがクラウスが居ない事は判り、ハンスに銃を仕舞わせた。
「珠子は?」
「珠子はん、居てるか?」
覗き窓から宗一は叫び、返答の無い事に嫌な事を想像した。
「まさか、な。」
場を和ませ様と笑うが其れは渇いており、時一の顔が険しくなった。乱暴に鍵を外し、硝子の踏まれる音が静かに聞こえた。部屋が荒された様子は無く、無理矢理連れて行かれた事は先ず消えた。
「紳士的に連れて行ったか?クラウス。」
溜息と共にハンスは冷静に云い、しかし時一は冷静にはなれ無かった。家中に響く時一の声は痛々しく、侑徒も無言で珠子の姿を探した。
「珠子さんっ、何処ですかっ」
まさかこんな早い時間に帰宅する事等想像して居なかった為書き置き等は一切無く、又居る筈のロッテの姿が無い事も時一を焦らせた。
「珠子、珠子っ。何処に居るんだ、珠子っ。ロッテっ」
二階を見てもおらず、居ないみたいですね、と侑徒は息を零した。
「クラウスが連れて行ったのなら、書き置きの一つ位ありそうだが其れも無い。」
「なあ、此のクッキー。」
暢気な声で宗一は見付けたクッキーの皿を持ち、食べ乍ら聞いた。
「吃驚する位固いわ…」
「固い…?」
食べた宗一は顎の関節がおかしくなりそうだと数回動かし、時一は一枚丸々口に入れた。歯が取れると云うか噛み合わせが悪くなりそうと云うか、兎に角クッキーは固く、ロッテと共に居ない事に時一は安堵から座り込んだ。
「買い物だ…」
「何で判るんだ?」
安堵で笑う時一にハンスは首を傾げた。
「其のクッキー、完全に失敗でしょう?」
「俺は好きだな、うん。」
石でも噛み砕いて居る様な、明らかにクッキーを食している音では無い音を出し、一枚又一枚簡単に食べて行った。試しに侑徒も口に入れたが、生まれ乍ら柔らかい物しか口にした事の無い軟弱な顎は全く動か無かった。横でばりばり鳴る顎を物珍しそうに上目で眺めた。
「珠子さんは何かに失敗すると鬱憤を晴らす為に、すかさず買い物に出る。」
「嗚呼、成程。」
皿を一人で空にしたハンスは満足気に頷き、テーブルに珈琲があった事を思い出し勝手に一階に下りた。
珠子の無事が確認出来、時一はゆっくりと階段を下りた。支えましょうかと侑徒に聞かれたが首を振った。宗一は一人先に下り、勝手にハンスと二人で珈琲を飲んだ。カップを口に付けた侭侑徒の背中を叩き、硝子とカーテンを始末する様云った。
「橘がドアーに激突して、硝子割った事にしよ。ほんにどじちゃんやからなぁ、橘。」
段々と宗一の奴隷と化して居る侑徒。一瞬不満な顔はしたが、はあ、と硝子を片付け始めた。どじであるのは間違い無いので、従うしか無い。恋人じゃないのかと目でハンスに聞かれたが、否定も肯定もしない素振りで珈琲を飲んだ。
ゆっくりと腰掛けた時一は手探りで珈琲の入るポットを掴み、其の軽さに、僕の分は、と聞いた。
「無い。」
「無いなぁ。」
「僕の家だぞ…」
「俺、煎れます…」
休む暇無く侑徒は動く。珈琲を探して居る中、宗一が座ろうとしたので椅子を引く。そして又珈琲を探す。右から二番目の棚、と時一に指定され手当たり次第に二番目の棚を開け湯を沸かす。真横で忙し無く動く侑徒にハンスは落ち着かず、手伝おうかと云ったが断られた。
「放っておけば良いのに。」
テーブルに顎を乗せ、早く早くと喚く。
「時一、自分の家だろう?」
「橘がするって云ったんだろう。」
「せやぁ、せやぁ。」
「御気に為さらずに…」
「其れよりさぁ、日本語止め様よ。」
侑徒が居る場所でハンスは日本語を話して居る。流れで宗一も日本語を話し、時一も無意識に話して居た。
「此処は独逸だよ、独逸語話してよ。」
独逸語で云ったが、日本語で却下された。




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