Diktatur-独裁


時一から視覚が消えてから十日、やがて七月になろうとしていた或る日、和蘭に居た総統閣下が帰国した。勿論、時一の話を聞いた為だ。血相変えた総統閣下はゲーテは何処だ、ヨーゼフは、と喚き散らした。朝一で帰国を聞かされたクラウスは慌てふためき、取り敢えず汚い部屋を掃除した。ハンスは前日に聞かされて居た為きちんと他軍人に伝え、総統閣下の帰国を待った。
「総統閣下万歳っ」
「Heil!Heil!Heil!」
一層高く上げられる国旗は夏の風に靡き、太陽が痛い程赤色を強調させた。
総統閣下が帰国し、ベルリンが熱気に包まれて居る中、時一は一人、冷たい空気の地下に居た。歓声が聞こえない訳では無いが、今の時一には辛い物があった。皆がハイルと叫ぶ中で其れを一身に受ける総統閣下の姿を見れないのは、矢張り辛い物がある。
宗一は面倒臭そうに冷めた顔で其処に居る。日本に居た時、そう軍と関わりが無かった京都に居た侑徒は、此れが軍国か、と感心した。
「ハイルって、如何するんですか?」
キラキラと目を輝かす侑徒に、宗一は適当に右腕を前に突き出し、こう?、と首を傾げた。
「知らんわ、ルートヴィヒに聞きな。」
そうあしらわれ、ルートヴィヒを見たが俯いて、立った侭寝て居た。此れ程の歓声や音楽ならば聞こえる筈だが、ルートヴィヒは意識的に音を遮断し、全く聞こえない状態を作って居た。横に居るルートヴィヒの弟子は、博士博士、と仕切りにルートヴィヒを指で突くが起きる気配は無い。やがて総統閣下が目の前を通過すると云うのに、軍医長が眠りこけ敬礼をしないのは立場が悪い。
総統閣下が宗一の前に来た時其の足を止め、驚いた様に宗一を見た。
「幻覚かと思った。」
「触ったら判りますよ、総統閣下殿。」
云われた通りに軍服の上から掛かる白衣を触り、独逸も安泰だ、そう云った。瞬間、ルートヴィヒの目が開き、右腕が前に突き出た。其れに慌てて侑徒は同じ様に腕を突き出した。
「ハイル…」
小さく云った侑徒に総統閣下はきょとんとし、見知らぬ侑徒に対して笑顔で右腕を直角に曲げ手の平を見せた。
「おめでとう、認められたわな。」
「そう何ですか?」
「そうだろう?ルートヴィヒ。」
少し身を出し、ルートヴィヒを見た宗一。未だ眠気が残る目は、見えた言葉を暫く考え、
「…………嗚呼、そう。そうだね。多分。そうだと良いね。」
と曖昧に頷いた。
実はルートヴィヒ、寝起きと太陽の所為で宗一の口が全く見えておらず、かと云って目を擦る訳にもいかず、適当に答えたに過ぎない。そんな事も知らず、人に、ましてや国の一番上等に認められた事も無い侑徒は少し嬉しくなり、ゆるりと口元を緩めた。
総統閣下が前を過ぎ、相変わらず無表情で生気の無い目で真直ぐ前を向くクラウス続き、其の後ろにはハンスが居た。ルートヴィヒを一瞥し、声を出さず「寝るな」と口だけ動かした。理解したルートヴィヒは敬礼し、又眠り始めた。




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