Diktatur-独裁
手探りで棚を探し、目当ての棚を見付けた時目を覆われた。
「ヨーゼフさん、ヨーゼフさん。総統閣下が御呼びですよう?」
「宗一がそう云うと、何か違和感あるんだよなあ。」
時一は笑い、頬の動きを宗一の手に伝えた。棚から手を離し、目を塞ぐ手に触れる。
全く真暗らな世界で、きちんと判る存在は宗一だけだった。背中に伝わる体温も匂いも、宗一だけが全てだった。
「怒られるかな、僕。」
「何で?」
耳元で繰り返される宗一の息遣い。安堵に包まれる時一は、笑顔を消す事は無かった。
「俺の姿が見えないとは如何云う事だあヨーゼフゥ、とか。」
「嗚呼、総統閣下なら云いそやな。」
頬を寄せ合い、二人は笑う。丸で昔に戻った様で時一は嬉しく、又宗一も同じ気持だった。
一番不安な時に何時も傍に居て、安堵を教えてくれるのは必ず宗一だった。不安で足元が見えず、倒れそうになる時何時も真先に来てくれる。そうしてそっと抱き締めてくれる。
時恵が死に不安定な今の時一には、宗一が必要だった。宗一と侑徒の事を知らない時一には、此れで良かったのかも知れない。目が見える状況で、其れを直視するのは追い討ちを掛ける結果となり、最悪自殺し兼ねない。
最悪と思う物事は、後から必ず必要性のある物事に変わる。
前向きで強い心を持つ時一は、宗一が時一に与える安堵感より大きな安堵感を宗一に与えた。そして救いだった。
「大好きやわ、時一。」
吐かれた言葉に時一は笑ったが、侑徒には心が痛かった。
宗一の気配しか判らない時一は、ドアーの直ぐ横に物静かに立つ侑徒の気配には全く気付けず居た。宗一の吐いた、未だ一度も聞いた事の無い言葉に耳を塞ぎたくなったが、侑徒は堪えて居た。じとじと陰湿に二人を眺め、其の目と感情の持ち方は、宗一の母親と大差無い。顔も仕種も雰囲気も、侑徒と母親は類似し、宗一は偶に気味悪く感じる。
笑顔で宗一の手を返し、包帯が巻き付く顔を向けた。
「其れじゃあ、怒られに行って来るよ。」
「気ぃ付けてな。」
離れた時一の背中にひらひら手を振り、ドアーに差し掛かった時一は足を止めた。ゆっくりとノブから手を話し、錆付いたからくり人形の様な動きで首を回す。其の異様な時一の姿に侑徒は声を殺した。
「何時から居た。」
錆付いた独逸語は、全く奇妙で風景には似合いだった。
侑徒は喋らず、時一を見据えた侭ドアーを開き一列した。空気に送られた鼻を掠める侑徒の匂いに時一は眉を顰め、一歩踏み出した処で頭を下げる侑徒の首を下から掴み上げた。行き成りの窒息に狼狽はしたが抵抗はせず、其の侭本棚に背中を打ち付けられた。半端に仕舞われていた本がごとんと落ち、頁を開く。分厚く、折り目が付く本。勝手に開いた頁は、脳の仕組みであった。
「俺はてっきり。」
ぎちぎちと不安定な日本語が通る。
「そんな女みたいな顔してやがるから、御前は男が好きなのかと思ってた。」
妻と同じ匂いをさす侑徒に時一は勘違いし、声色も口調も違う時一に侑徒は目を伏せた。
「珠子と寝たのか?」
「御自分の妻さえ信じられませんか?アルツト ゲーテたる御方が。」
一層絞められ、侑徒は薄く笑う。
「香水を分けて頂いただけですわ。」
「其の喋り方、癪に触る。」
宗一が思う様に、時一も思って居た。
「俺の左側を潰した人間を思い出すよ。」
向き直り、両手を添え顔を寄せた。包帯に巻かれる向こう側の目を侑徒は想像し、此の人の心は目と同じだ、そう思った。腐り、爛れ落ち、醜い。
侑徒は添えられる手をやんわりと掴み、首から離した。
「生憎俺は、アルツト ゲーテの左側等存じ上げません。他、当たって貰えますやろか。」
其の強かさに時一は鼻で笑い、無言でドアーを閉めた。傍観して居た宗一は溜息を零し、消える足音に安堵した。
「ほんに、橘はそっくりやなぁ。」
零される言葉を耳に流し乍ら乱れた衿元を直し、宗一に向いた。
「アルツト ゲーテは、一体誰と俺を重ねてるんです?」
「おかんや。」
紫煙を吐く宗一の顔には疲労が隠れ、首を振る事で昔を消そうとして居る様にも見える。
「先生ぇの?」
「せや…」
嫌な思い出が、紫煙を吐き出す度、此の煙の様に上がる。眉間に皺寄せ、頭を押さえる宗一に言葉は繋がら無かった。唯無言で、記憶と紫煙を繋いだ。
こんな晴れた、蒸し暑く、けれど何処か冷たい空気が流れる日だった。
長く出来た灰が靴の上に落ち、そうして床に転がった。其の靴から伸びる灰色の線に宗一は又溜息を吐いた。
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