身体に刻む絶対忠誠
子犬の癖になんて力が強いんだと、ヴォルフから伸びるリードを自分の方に引き寄せる。手の感覚が無くなり始めているのに、一向に自分の方に来ないのは何故なのか不思議で堪らない。
「駄目だって…、そっちは…。御願い、云う事聞いて…」
子犬相手に全力を出す侑徒の姿を、他の将校や医者達が微笑ましく見ている。犬等飼った事の無い侑徒は如何世話して良いか判らず、飼った事のある珠子に聞いても、大型犬は飼った事無いからと逃げられた。
此のヴォルフの犬種はジャーマンシェパードだ。故に、子犬の癖に力が強い。小型の成犬と大して大きさは変わらず、矢張り貰うんじゃなかったと後悔した。
「御願い、こっちに来て…。そっちは行っちゃいけないんだって…」
全力でリードを引き、叫んでいる所為で侑徒の顔面は蒼白している。
「嗚呼、もう駄目…」
云ってリードを離し、地面に座り込んだ。瞬間何処かに掛けてゆくヴォルフ。又怒られると絶望し、見ていた将校達が声を殺して笑っている。
「もうええわ、ヴォルフの馬鹿っ。俺は忙しいんだよっ」
ヴォルフが消えた方に向かって虚しく叫び、皮でも剥がれてしまえと地下に続くドアーノブを握った。しかし。何処かに行っていたヴォルフが足の間から顔を覗かせている。侑徒をからかって遊んでいるのだ。其れに気付いた侑徒は数回頷き、もう遊んでやんない、そう意地悪く笑った。
「ヴォルフ、あのね。」
独逸語を直ぐ覚えるから、そうしたら君と沢山遊べるから、そう云おうと身を屈めた瞬間、又ヴォルフは走り去った。芸術品の様だと総統閣下が褒めた顔が歪み、歯軋りを繰り返す。
「あんの、馬鹿犬が…」
其処迄人間の顔が歪むのかと考えそうな程侑徒の顔は般若面の様に歪み、風に踊る髪が又怖い。しかし侑徒、此処は大人だ。ましてや相手は子犬。人間の子供でもないのだ。余裕の笑みを一つ零し、頬に掛かる髪を耳に掛けた。
「皮剥がれても知らないからなぁ。」
背を向け、入ろうとした時侑徒は吹き出した。自分の背中に飛び付くヴォルフに笑いが漏れる。
「ほら、行こう。後で遊んであげるから。…先生ぇが。」
年寄りに犬を与えて認知症予防になんて効果的なんざましょ、俺って医者の鑑、とヴォルフを抱き締め頬にキスをした。
実はヴォルフ、如何して侑徒をからかっていたかというと、此の地下の臭いが大嫌いなのだ。人間の数倍以上ある臭覚に、此の臭いは絶えられないのだ。だから侑徒を困らせ、少しでも此処に来るのを遅らせた。犬の臭覚の事もヴォルフのそんな気持も知らず、侑徒は自分の部屋を開けた。
――あ、此処良い匂いだ…
侑徒の部屋に入ったヴォルフは鼻を鳴らし、君は此処ね、とふかふかのソファに座らされた。
「大人しくしててね。君を狙ってるアルツト メンゲレがもう直ぐ来るから。」
侑徒の人差し指を見ていたヴォルフは瞬間嫌な顔をし、深く項垂れた。此処が嫌なのと同じに、ルートヴィヒも嫌だった。人間性が嫌なのではなく、身体に染み付いた匂いが嫌いだった。此の部屋は比較的良い匂いで、我慢出来るだろうとヴォルフはカルテを整理している侑徒の横顔を見た。
通った鼻筋で、顎は細く、ヴォルフが凡そ見た事も無い奇麗な黒髪を揺らしている。口元にある黒子を触り乍ら、カルテと辞書を交互に見ている。そんな侑徒の姿をじっと見ていた。
――此の人、奇麗なんだけど、何云ってるか全然判んないんだよなぁ…
声も女みたく高く透き通り、最初見た時女と思った。手の匂いを嗅いでも矢張り女で、其の小ささから、うん、女の人だ、そう勘違いした。ヴォルフの知っている男の手は総統閣下の様にどっしりと大ききか、宗一の様に神経質に細長いかの何方かだった。ルートヴィヒは宗一の様な手で、何度其の細長い指で鼻の穴を塞がれたか。思い出しただけでも腹が立つ。其のルートヴィヒが此処に来るのだから、大人しくしておこうと、クッションに頭を乗せた。
安心したのかヴォルフは眠り、其の寝顔に侑徒は笑った。犬の癖になんてハンサムなんだと、甘い匂いのするタオルケットを上から掛けた。起こしたらいけないと紙に“アルツト メンゲレ。ヴォルフ、寝てる。静かに開けて”そう単語だけを書いた張り紙をドアーの外に貼った。
侑徒がドアーを閉めた時、クラウスが数人の側近を引き連れ現れ、四方に配置させた。ドアーに貼られている張り紙を見、握り潰すと横に居る側近に渡した。
「御前はドアーを見張れ。四方に見張りが居るから人は来ないとは思うけど、来たら、判ってるな?」
「勿論、元帥。」
側近の頭を撫で、銃の閉まってある胸元を数回叩いた。
指示通りに静かにドアーを開け、ドアーに向かって背を見せていた侑徒は物音に気付き、やけに来るの早くないか?と時計を見た。昼のショコラーデを食べたら来るよと云っていたのだが、其の時間には一時間以上時間はあった。
「早いですね。」
椅子を回し振り向いた瞬間、額に銃口を突き付けられた。
「やあ、侑徒。アルツト メンゲレじゃなくて御免ね?」
冷たい銃口の向こうで、クラウスが不気味に笑っている。椅子を引かれ、額に痛みが生じる。
「何か…」
ヴォルフを一瞥し、未だ起きていない事に視線を戻した。
「俺と少し遊ぼう。」
「は…?」
銃口は額から離れ、安堵したが今度は口に押し込まれた。舌が歯に無理矢理押し付けられ、攣りそうだ。
「良いか、少しでも声を出してみろ。」
ロック解除をし、更に強く押し込んだ。
「引き金を引く。」
侑徒の目を見た侭タイを外し、両手を差し出す様指示を出す。嫌なら引く迄だとコッキングした。クラウスの目を見、此の人って心が無いんだな、と侑徒は知った。生気の無い目で辺りを見ても何も見えないだろうに、侑徒自身が実際そうだったから知っている。
侑徒には宗一が居た。けれどクラウスは居ない。孤独な元帥、遠い昔に聞いたそんな言葉を思い出した侑徒。
抵抗無く両手を出し、タイで縛られた。あっさりと両手を縛らせた事にクラウスは面白さを無くし、口から銃を抜くと白衣で拭いた。
口端から涎の線を作り、視線はヴォルフに向いている。柔らかく笑う其の顔に、こんな状況で何故侑徒が笑って居られるのか理解出来ず、自分に向かせると蟀谷に銃口を付けた。クラウスと同じ様な生気の無い目を合わせ、互いを見た。
「大将閣下。」
薄い唇から発せられる侑徒の声にクラウスは聞き惚れた。こんな場所で、こんな声を聞いた事は無かった。侑徒の声に母親を思い出し、首を振る。
「私が、何故貴方の怒りを買ったかは判りません。ですが、貴方が私を憎いと御思いでしたら如何ぞ、殺して下さい。」
侑徒の話し声に目を覚ましたヴォルフは首を高く上げた。
――クラウス、何してんだ…?
軍服と髪型、其れより匂いでクラウスと判り、其の元飼い主の息子が今の飼い主の頭に銃口を突き付けて居るのだから平常で居られる訳が無かった。ゆっくりと起きたヴォルフの身体から甘い匂いが立ち、タオルケットを見た。
「動くなっ」
物静かに話して居た侑徒から出た大声にクラウスはヴォルフに視線を向けた。ヴォルフは一瞬身体を止めたが、侑徒が何と云ったのか判らない為ソファから下り様とした。
「動くなってっ」
――“ウゴクナ”って何だ?
アイアンクロスに電灯が反射し、見えた水色の首輪の愛らしいさを鼻で笑い、侑徒の髪を引っ張った。
「君の主人は“Nicht bewegen”って云った。主人の命令には反せないよな?」
クラウスの独逸語に侑徒の言葉を理解したヴォルフは出した前足をソファに戻し、じっと二人を見た。
「動くなよ?動けば君の主人の頭に風穴が出来る。」
苦痛を教える顔にヴォルフは悔しく、けれど助ける事も出来ない無力さに小さく鳴いた。子犬特有の耳障りな鳴き声にクラウスは苛立ち、在の犬を黙らせろと銃口で蟀谷何度も突いた。
「俺は犬が大嫌い何だよ。侑徒を殺す前に在の犬を殺すよ。」
「ヴォルフ…」
縛られた両手を上げ、人差し指を口に添えたがヴォルフは鳴き続けた。総統閣下にも侑徒にも、其の意味を未だ教えて貰って居なかった。
「早く黙れっ、主人が死ぬよ。」
尻尾を腹の下に巻き込み、ヴォルフは震えた。苛立ちが限界に来たクラウスは床に向かって一発放ち、其の音の大きさに侑徒は肩を強張らせた。強く目を閉じ、血の気を抜かす侑徒の顔は石像に見える。
「さっき君は、憎いなら殺せと云っただろう?」
「はい…大将閣下…」
「此れ以上、ヨーゼフの恨みは買いたくない。だから殺しはしない。」
銃を机に置き、机の一番下の引き出しを強く蹴った。反動で開き、侑徒でも知らなかったナイフを取り出した。此の引き出し、強い振動を与えなければロック解除がされず、侑徒は開け方を知らなかった。鍵穴は見当たらないのに何故開かないのか疑問ではあったが、使わないので其の侭にしていた。
取り出したナイフを机に刺し、クラウスは詰め寄った。
「君に忠誠心をあげ様。軍服を脱いでも、消えない忠誠心を。」
机から抜けたナイフが銀色の線を作り、侑徒の頬を撫でた。ひんやりとした感触に身震いが置き、湿ったクラウスの手が口を塞いだ。刃先が首筋を撫で、むず痒い痛みを感じる。
塞がれた口から熱い息が漏れ、足を床に擦り付けた。皮膚の切れる音に紛れクラウスの笑い声も聞こえた。
鼻に感じた血の匂いにヴォルフはタオルケットに鼻を埋めた。見れる筈は無く、呻く侑徒の声に震えた。
「奇麗に出来た。小さいけど、まあ良いか。」
切り刻まれた血に濡れるシャツからナイフを離し、隙間から見える傷に満足した。口から手を離された侑徒は自分の胸元を見、信じられない程溢れている血を見た。
「痛かった?」
ナイフに付く血を舐め乍らクラウスは聞く。ほんのりと甘い侑徒の血の味に驚き、一旦ナイフを口から離し侑徒を見た。
「い…いいえ…」
侑徒の声は耳に入らず、溢れる血を眺めた。
「ヨーゼフと、同じ味がする…」
何故だ、とクラウスはしゃがみ、傷口に顔を寄せた。味を知る程ヨーゼフを思い出し、傷口に広がる痛みに侑徒は声を漏らした。
「何で…何で…」
優秀な人間と同じ味がするんだ、此の日本人は………。日本人の癖に…
時一でもルートヴィヒでも、自分でさえも持たない在のほのかな甘さを、何故侑徒が持って居るのか。
痛みで息を乱す口元に掛かる黒髪。揺れていた。
「在の時も君は、俺にこうして、食べられたな…」
顔を離し、口元の血を白衣で拭くと両手を縛るタイを外した。透かさず侑徒は白衣で胸元を隠し、俯いた侭云った。
「出て下さい…。やがてアルツト メンゲレがいらっしゃいます…」
「云われ無くとも。」
侑徒から一歩下がり、椅子の真横にナイフを突き刺した。ドアーが閉まり、クラウスの足音の後から無数の足音が続いた。痛さと屈辱で侑徒は動けず、白衣を握り締めた。肩を震わす主人の姿にヴォルフはソファから下り、足の裏に血を付けた。心配する様に前足を膝に乗せ、侑徒の顔を覗いて鳴いた。
「大丈夫だよ…。平気…。此の傷はね…」
胸に刻まれたハーケンクロイツより、こんな身体にされた事の方が痛かった。
「先生ぇに、何てゆうたら、ええんや……」
侑徒の泣き声にヴォルフはショックを受け、膝から足を下ろすとドアーの前に立った。何度も吠え、俺の主人を助けてくれと吠え続けた。
声が枯れ始めた時ドアーが開き、廊下から流れて来た臭いにヴォルフは噎せた。
「何だ、如何した?あれ、御前総統閣下の御犬様じゃん。何してんだ?………おい…。おいっ、御前大丈夫かっ?一寸っ、凄い大変っ」
「何だよ、御前何時も大変大変っ……て、此れは大変だな…」
「おい、大丈夫かっ?」
「誰にやられたんだよ…」
数本の足の間をヴォルフはうろうろし、抱え上げられた侑徒の後ろを付いて行った。
「ヴォルフ………何処…」
――此処、此処に居る。
廊下に血の跡が続き、見失わない様に侑徒を見た侭必死に付いて来るヴォルフに男は笑った。
「君の主人は大丈夫。でも此処からは入れない。」
アルミニウムのドアーが締まり、其の隙間から見えた侑徒の姿にヴォルフは吠えた。
日本語を理解する独逸一優秀で、独逸一主人に忠誠を誓う犬。
侑徒の胸元のハーケンクロイツを舐めたヴォルフは、そう皆に云われた。
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