海を挟んだ家族


「そう、ヴォルフ凄いのね。」
今日の事を聞いた珠子は目を見開き、侑徒の横に座るヴォルフに云った。
――そうだ、俺は凄いんだぜ。
得意げに鼻を突き出し鳴らした。小さな頭を小さな侑徒の手で撫でられ、膝に頭を乗せた。
「世界一可愛いワンコちゃんっ」
身を屈め、強くキスをする。ヴォルフの忠誠心に侑徒は満足して居るが、宗一は作り笑いを浮かべるだけで会話には混ざらなかった。クラウスに対する怒りで言葉が出ない。
時一の背中に刻み、ロッテを兵士達に凌辱させ、珠子にも深い傷を負わせた。時一に関わる人間全てに傷を付けるクラウス、次は自分だろうと思った矢先侑徒が被害を受けた。
時一は侑徒を嫌っている、誰もがそう思って居たのだが状況が変わり、侑徒と居ると楽しいとさえ言い出した。一度もそんな事を云われた事の無いクラウスは怒り狂い、結果侑徒の身体にハーケンクロイツを刻んだ。
絶対忠誠の証だと、クラウスの側近達には皆、身体の何処かにハーケンクロイツが刻まれている。其れはナイフであったり焼き印であったり様々だが、クラウスはナイフが御気に入りの様だった。
本人が、まるで他人がされた事を夕食の時間に聞いてかの様な態度で笑って居るのにも、宗一は納得いかなかった。侑徒が自分に会う迄、どんな人生を歩んで居たかは知らない。けれど、余りにも暢気な気がする。
「痛くは無かったの?」
珠子に聞かれ、ヴォルフから顔を離した。
「痛かったですよ、ナイフですから。ナイフは初めてで…」
ナイフは、と云う事は銃ならあるのだろうかと珠子達は顔を引き攣らせた。
「ナイフはて……」
「包丁とは又違った痛さでした。」
「嗚呼、橘よぅ手切るからなぁ。」
「指と胸じゃ全然違うじゃない。」
「でも驚いたな。」
カップを口に付け、珈琲を飲むと視線を斜めに向けた。
「鞭の方が、数倍痛いんですね。知らんかったわ。」
云って又珈琲を飲んだ。珠子は放心し、宗一は少し考えた。
「えっと、橘…。そう云う御趣味が…」
「違いますよっ。そんな趣味、持ってませんっ」
慌てて、趣味では無く父親からだと云った。すると珠子は頷き、宗一も納得した。
「折檻親父か。」
「誰か居たわね、そんな人間。確か、加納…。ふふ、もう云わないわ。」
「在の白女狐な。父親は皆殴るわ。和臣かて、散々親父に殴られ、木に吊るされてたわ。ま、在れは和臣が悪いんやけどな。」
久し振りに聞いた名前に珠子は笑い、総統閣下の写真を置いている棚に目を向けた。宗一が持って来た和臣と時恵、其れから日本に居る自分達の“家族”の写真を、クラウスの代わりに飾った。総統閣下の写真を置くだけでは物寂しく、如何せならと並べた。
「うちの写真は外そうや。未だ生きてるわ。」
「だったら私だって生きてるわ。」
「此れ、誰です?」
テーブルから離れ、三人は写真を眺めた。侑徒には馴染みの無い顔ばかりではある。一度は見た事はある顔なのだが、今から十五年や二十年以上も前の写真の顔は若く、本当に考えて居る人物と同一か怪しい。
侑徒が一番気になったのは、真白の軍服を着、十代前半の珠子と一緒に映る人物だ。一度もこんな人物は見た事無く、勿論宗一が撮った写真でも無い。如何にも、女達が黄色い声を出しそうな顔付きをして居る。
「此れはね、うふふ。私の宝物っ」
此の写真の年齢に戻った様に珠子は黄色い声を出し、写真にキッスをした。
「在の時代、女達がこぞってきゃあきゃあゆうてた御方や。」
「誰です?」
「んーっ、素敵っ。嗚呼素敵っ」
何度も何度もキッスをし、硝子が曇り始めている。此の興奮具合、女装した時一を好きになった時から少し怪しいとは感じて居たが、まさか、宗一は何かを感じた。
「愛してるわっ、雅様っ。もう一回キッスしておきましょうっ。私の永遠の恋人よっ」
最後に一度、強烈なキッスを写真に送ると静かに写真を戻した。
「………やっぱりもう一度しておきましょうっ」
「もうええ、もうええ…。珠子はんが、在の中の一人やて判ったから…」
「在の中?」
「此の御方のハーレム、其れの一人。」
「違うわっ、私は特別よっ。ねぇ、雅様っ」
女達は皆云って居た。自分だけは特別だと。時恵も琥珀も。本人に“特別”等無いのだけれど。
写真にでれでれする珠子の姿に宗一は少し頭痛を覚え、此の頭痛に確信した。
「珠子はん、ほんまは女が好き何と違う?」
持って居た写真を床に落とし、酷く動揺を見せた。そんな訳無いじゃないと否定するが、目は泳ぎ、顔が引き攣って居る。其の動揺っぷりに侑徒は、此の“雅様”が女である事を知り、ヴォルフと二人で写真を見た。
「ヴォルフ…、此の人女の人だって…。えっとね、女性は確か……Frauen、だったかな。」
――マジかよ。男じゃんか。
「日本って、何時から性別が逆転したんだろう。」
顔を見合わせ、口をへの字に曲げた。
二人の上では、必死に否定をする珠子と、其れを楽しむ宗一が顔を見合わせて居る。
「雅様は雅様よ。違うわ。憧れを超越した愛情よ。」
其れを世間では、恋心と云うのだが、宗一は未だ黙って居た。
「へえ、ほんなら、時一と時恵。今の状況が一切無くて、何も知らへん時、二人に会うたら、どっち選びはるぅ?あ、時一は男の格好な。」
「男の格好?なら選ぶ迄も無いわ、時恵様よ。当然でしょう。」
「はい、確定。珠子はんは、同性愛者。Herzlichen Gluckwunsch.」
放心する珠子に人差し指を突き付け、宗一は笑う。本当に此の人はサディスティック何だから、と侑徒は珠子を哀れんだ。
昔から宗一は不思議に思って居た。肉親で無い珠子に、女嫌いの自分が何故蕁麻疹が出ないのかを。時一の惚れた人間だからかとも思ったが、納得は出来無かった。
性をしっかりと理解して居ない幼児は平気だ。皆に好き好き云って居た頃の恵御を抱いても蕁麻疹は出なかったのだが、日本に来た恵御を見た時、蕁麻疹が起きた。恵御の初恋の相手は宗一だ、そんな人間に成長した恵御が恋心全開で目の前に現れた。
時一の娘の恵御でも出たのに珠子には出ない。
納得した宗一はしゃがみ、ヴォルフの前足を持ち上げた。
「大変だヴォルフ。此処に居る全員、収容リストに載る。新しい主人を今から探そうか。」
宗一の発言にヴォルフは低く嚔の様な鳴き声を出し、侑徒が死ぬ時は自分も死のう、そう固く決心し、短い命に項垂れた。




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