Befehl-命令


じっとりとした暑さを全身に感じ、蝉の声に身体を起動させた。起き上がり、其れが幻聴である事を時一は知ると、温い水を流し込んだ。何故蝉の声が聞こえたのか判らず、倦怠感を覚える身体を屈折し、項垂れた。
暑さの所為か、酷く頭が痛い。
蟀谷が血液の送りを時一に教え、一層酷くなる蝉の声に苛立ちを覚えた。耳鳴りが其れに聞こえるのだが、時一には如何もそうには思えなかった。芯から沸き上がる蝉の声は頭中を埋め、思考等無かった。あるのは苛立ちで、暑さで、そして不快感であった。
「煩い…」
呟き、煙草に手を伸ばしたが、記憶して居た其処に其れは無かった。其れが又一層時一を苛立たせる原因となり、ベッド横に置いてある小さな硝子製のテーブルに腕を伸ばした。蝉の声を消す様に上にある物を薙ぎ落とし、コップが割れたのを知った。鈍い音は、灰皿と判った。そして、一瞬、明るさを見た。
「何だ、其処にあったのか。」
灰皿よりも奥、割れたコップの近くに煙草は飛ばされて居た。数本残る箱を持ち、又深くベッドに座ると一本出そうとした其の手を止めた。
見える筈の無い景色が、見えたのだ。
煙草が落ち、辺りを見渡しても、矢張り闇が広がり、抑自分の目は義眼だ、神経が繋がる盲人で無い限り光は見えない、全くの作り物で光が見える筈が無い、と時一は自分に云い聞かせた。現に今は闇が広がり、足元に落ちて居る煙草でさえ何処に落ちて居るのか判らないのだ。
蝉の声、茹だる暑さ。汗が一つ、顎から落ち、手を濡らした。
蝉の声も頭痛も嘘みたく消え、無の世界が広がった。そして現れたのは、恐怖だった。
喉を鳴らし、落ちた煙草を踏み、壁にぶつかり乍ら洗面所に向かった。蛇口一杯捻り水を出し、其処に熱い頭を突っ込んだ。生温い水は一層温くなり、時一の顔を流れた。水の音を聞き乍ら正面を向いた。
正面には鏡がある。
瞬間時一は悲鳴を上げた。
見える筈の無い自分の顔に、悲鳴が漏れた。
髪は色変わり、目は黒く、自分の知って居る、最後に見た自分の姿とは掛け離れた姿が其処には映って居た。
「僕は…俺は…、ヨーゼフ・ゲーテだ…………」
鏡を見た侭座り込み、又闇の戻った世界で震えた。壁にしがみ付き、がちがちと歯が鳴る。
「ヨーゼフ…?ヨーゼフ?」
悲鳴に目を覚ました総統閣下が姿を現し、床に蹲り顔面蒼白で恐怖に震える時一を見た。聞こえた声に時一は一層怯えを見せ、クラウスの事を思い出した。
「俺は…、俺は……」
「可哀相に、悪い夢でも見たのか。」
出しっぱなしの水に気付き、又時一の髪が濡れて居る事にも気付いた総統閣下は、水を止めると時一の真横に落ちて居るタオルで髪を拭いた。
「俺は、アーリア人だ…。俺は…」
震えた声に総統閣下は首を振り、当たり前だろうと、額にキスをした。
「ユダヤ人とでも思ってたのか?」
蝉の声が酷い。
誰かが何かを云って居る様だと時一は気付き、微かに聞こえる声に向いた。
「………………誰…?」
凡そ時一の声とは思えない程高く、丸で少女の様な声に総統閣下は顔を引き攣らせた。
「ヨーゼフ…?」
「貴方、誰ですか…?」
澄んだ高い声に答える事が出来ず、返事が無い事に時一は恐怖の中から狼狽を見せた。
「誰何ですかっ、貴方っ」
金切り声に近い声で時一は叫び、掴まれた両肩と聞いた事の無い男の声に時一は身を竦めた。
「ヨーゼフっ、私だっ。何を叫んでる?」
「何?何て云ってるの…?」
聞いた事も無い怒鳴り声に近い声から聞こえる、聞いた事の無い言葉。
一気に恐怖が襲い掛かり、腕を振り払うと逃げる様に辺りを見渡した。
「抑、此処は、何処何ですか。貴方は、誰何ですか…」
身体一つ分の感覚を開け、時一は壁に縋り付いた侭聞いた。
然し、時一が総統閣下の言葉を判らないのと同じに、総統閣下も判らなかった。
互いに無言で、洗面台に置かれた時計の秒針が無駄に響いた。
三回、長針が動く音を聞いた。
「Verschwinden Sie.....」
引く呻かれた言葉に総統閣下は視線を上げた。
「ヨーゼフ…?」
確かに自分の知って居る時一の声であり、又独逸語であった。
無言で時一は洗面台に手を付き、ゆっくりと立ち上がった。険しい顔で鏡を覗き、伸ばした手はきちんと映る顔に置かれた。
「俺は、ヨーゼフ・ゲーテ。独逸人だ………」
激しく鏡が割れ、覗いた壁に時一の拳は打ち込まれて居た。割られた鏡の破片が総統閣下の足元に落ち、其処からゆっくりと時一を見上げた。泣いて居るのか鼻を啜る音が聞こえる。
「総統閣下…?」
「何だ…?」
壁に残る鏡は、時一の姿を二つ映す。擡げて居る頭をゆっくりと上げ、ゆっくりと向けた。視線だけ真直ぐ違う方法を向いて居るが、自分を見て居るのだなと、血の落ちる手を掬い上げた。髪を拭いた少し湿ったタオルで血を拭い、生臭さが二人の間に立ち込めた。
「俺は、もう、駄目です。」
掴まれた手を振り払わず、縋りる様に時一は床に座り込み、項垂れた。
「御命令を、総統閣下…」
掠れた弱々しい声に不安が過ぎり、掴む手に力を込めた。
「私に、自害の御命令を…」
アーリア人として、貴方の忠実な人間の侭死ぬ事を、許して下さい。
「其れが駄目なら…」
クラウスと同じに、異邦人の章と共に追放を。
耳を貫いた言葉は、頭に何度も繰り返された。本当に、何処迄、此の男は此の国に忠誠を誓うのか。
総統閣下は手を離し、タオルを握り締めた。
しゃがみ、数回肩を叩く。優しい声に似た其の手の温もりに、時一は益々身体を屈した。
「判った…」
丸で土下座をして居る様にも見える姿に、迷いは無かった。
「何時でも良い、好きな日に、決行しろ。場所は、用意しておく。」
君が入る柩と、ハーケンクロイツの旗と共に。
涙腺は、崩壊したと聞く。然し、顔を上げた時一は顔面をくしゃくしゃに歪ませ、大量の涙を見せた。
「有難う御座居ます…、総統閣下…」
蝉の声が、小さく消えた。




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