Befehl-命令
出勤したら、名札を裏返すのが決まりになって居る。自分の名前を裏返した時、二番手にあるべき名札が無い事に気が付いた。昨日迄は、裏返しにはならないもの、確かに其処にあった名札。ルートヴィヒ・メンゲレの下に必ずあった名札は、空白になって居た。
「アルツト、ゲーテ…」
呟き、其の空白を指先でなぞった。
垂れ眉毛を一層垂れさす主人にヴォルフは小さく鳴き、鳴き声に気付いた侑徒はヴォルフを見詰めて笑った。
「アルツト ゲーテ、居なくなっちゃった…」
独逸語も、未だ教えて貰って居ない。守って欲しいと云われた在の約束は、結局果たせ無かった。
もう一度空白に目を遣り、遣り場の無い気持を何処かに流す様に侑徒は歩いた。後ろを跳ねる様に付いて行くヴォルフ。然し、侑徒の足が向かう道程に足が止まる。
「置いてっちゃうよ。」
――ルートヴィヒの部屋かよ…
未だ意地悪をされるのでは無いかとヴォルフは腰を引くが、優しく笑う侑徒に抱えられ、完全に逃げ道を無くした。
ヴォルフは、侑徒に抱かれると途端に大人しくなる。普段から活発と云う訳では無いが、ちょこちょことは歩いて居る。本当に嫌なら腕から逃げれば良いのだが、ヴォルフに其れは出来無かった。侑徒に抱かれると安心感で全てを委ねたくなる気持になる。優しさと安堵感と云う柔らかくも強固な支配を侑徒は無意識にし、ヴォルフも又其の支配に気付いては居ない。
嬉しそうにぱたんぱたんを尾を揺らし、ルートヴィヒの部屋の前に付くと自然と尾の動きは止まった。
ドアー越しでもはっきりと流れ出る、ルートヴィヒの身体に染み付いた人間の異臭と云う異臭がヴォルフの鼻を塞ぎ、余りの息苦しさに一度嚔をした。其れに気付いた侑徒は、ノブに伸ばした手を一旦頭に乗せた。
「御前、良く嚔するね。鼻が悪いのかな…」
犬にもアレルギーがあるのであろうかと、少し乾いた鼻先を親指の腹で撫でた。生憎侑徒は獣医では無いので知らない。仮にあったとしても、侑徒に出来る事は無い。
足元にあるボタンを数回踏み、喉に何かが詰まり掛けた声の返事が来た。
ドアーを開けると、真正面にルートヴィヒが居り、カルテを書いて居た。時折箱からショコラーデを摘み、口の中に投げ入れた。
ルートヴィヒの部屋は、ノックをする変わりに、表ドアーの下に設置してあるボタンをノックする要領で踏む。すると中の電気が一瞬消え、人が来たのを知らせる仕組みになって居る。
カルテから目を上げたルートヴィヒは、嗚呼ユートか、とカルテのファイルを閉じた。そして腕の中で緊張するヴォルフに目を向け、にやりと口角を上げた。身震い起こしたヴォルフに気付いた侑徒は、意地悪をされる前にと床に下ろした。逃げる様にヴォルフはドアーの外に行き、こそこそと中を覗いた。
「何もしませんよ、いらっしゃい。」
其の笑顔は絶対に嘘だと、ヴォルフは顔を引っ込めた。其の時、後ろ足がボタンに触れ、一瞬暗くなった。こんな仕組みなのかと侑徒は感心し、ヴォルフ、驚きはしたが其の電気の動きが面白かった。
自分が踏めば電気が消える。
何だか其れが楽しい玩具に思え、何度もボタンを踏んだ。
ちかちかと電気が点滅し、侑徒が笑顔で困惑するに連れルートヴィヒは無表情で眉間を掻き、ヴォルフは鳴き乍ら楽しんだ。
「馬鹿犬。」
侑徒を過ぎたルートヴィヒはヴォルフを蹴り、数回足で転がした。
――止めろぉ、目が回んだろうがぁ。
きゃふんと弱々しく鳴くヴォルフをルートヴィヒは一層転がし、廊下を半分行った所でルートヴィヒのみ戻って来た。暫くすると、完全に目の回ったヴォルフがふらふらと戻り、一度壁にぶつかった。
「動物虐待は、駄目ですよ…。ヴォルフ、大丈夫?」
――畜生…。何処に何があるのか、判んねえよ…
「違うね。私が決死に考えた利器を玩具にした罰ですね。」
アリアの旋律に笑う事しか出来ず、下ろして居ても意地悪をされるのなら抱いて居た方が増しだと、ふらふらなヴォルフを抱き上げた。
「怪我して無い?大丈夫?」
――わぁお。ユートの顔が沢山だ。倖せだぜ。
沢山ある大好きな主人の顔にへらへら笑い、可哀相に頭を打ったんだろうな、と作った笑顔でヴォルフの頭を撫でた。
「其れで、御話とは。」
「其れね、はい。」
ヴォルフのボタン遊びの所為で目的を忘れ掛けた。ルートヴィヒは珈琲を飲むと侑徒に着席を促し、小さめのトランクを開けた。
「独逸語は読める?」
取り出した書類を確認し、一枚を侑徒に渡した。
生憎侑徒は、未だ独逸語を読む事が出来無い。会話は出来る迄になった。
其れを伝えるとルートヴィヒは椅子に座り、口頭で簡潔に、とショコラーデを口に投げ入れた。
「アウシュヴィッツ行きに、興味は無い?」
「アウシュヴィッツ…?」
聞いた事の無い単語に侑徒は首を捻り、もう一枚渡された書類に目を通した。
「独逸帝都最大規模の、収容所だね。シュヴァイツにある。」
指先に付いたショコラーデの甘さを舌に教え、空の箱に目を開いた。
「其処では、何を?」
「今と一緒。規模が違うだけ。」
人員が足りないと向こうから要請があり、自分を筆頭に数十人の医師が新しく派遣される事になったと、空き箱を捨てた。
引き出しを開け、新しい箱を取り出す。其の机に一体どれだけ大量のショコラーデが入って居るか判らないが、一瞬開けただけでショコラーデの甘い匂いが辺りに漂った。
甘い匂いに鼻を動かすヴォルフから顔を上げ、リボンを解くルートヴィヒの指先を眺めた。
細く、長く、丸で蜘蛛の足みたく見える。
「何故、私に御声を…?」
「何と無く。暇そうだしね。」
何と無く、で人の人生を決めるのかと、侑徒はヴォルフの頭を撫でた。
医師達にも、収容者にも家族は居るだろうに、未来はあるだろうに、何と無く、で全てを消す。
今以上の虐殺と人体実験を、何と無く決めた医師達で、何と無くする。
ルートヴィヒには家族が居ないから良いかも知れないが、アウシュヴィッツに行くと云う事は当然家族とは離れる事になる。其れを何と無くで決めてしまって良いのだろうかと、侑徒は思う。
「ヴォルフも良いよ。」
無言で頭を撫でる侑徒に云った。
「え?嗚呼、有難う御座居ます。」
其の事で無言になって居た訳では無いのだが、ずっと無言なのも悪いだろうと返事をした。
第一、独逸語も儘ならぬ自分が行き、役に立つのであろうか。
其れも考えて居た。
「所長はハンスだよ。」
だから言葉は心配無い、と心を見透かしたルートヴィヒはヴォルフに向かってショコラーデを一つ投げた。小さな口を大きく開け、器用に入れる。鼻に抜ける砂糖の甘さに、ルートヴィヒの匂いを感じた。
「糖尿病になる覚悟はある?」
杖に肘を付き聞くルートヴィヒに、動かして居た顎を止めた。侑徒を見上げ、吐き出したいと口を開ける。差し出された小さな侑徒の手に溶け掛けたショコラーデを吐き、数回舌を出し入れした。丸で排泄物に見える其れを侑徒はルートヴィヒに向け、無言で顔を逸らされた。手袋ごと捨てる結果になり、手から落ちない様用心した。
「アルツト メンゲレ。」
「何?」
「其れは、御命令ですか?」
自分に声を掛けた理由は“何と無く”。其処に命令等全く見えないが聞いて見た。
「其れは何?派遣が?ユートが行く事が?」
「私が其処に向かう事がです。」
「別に此処に残っても良いよ。唯。」
ショコラーデの箱を持ち椅子から立ち上がると、ソファに座る侑徒に差し出した。
「私は此処から居なくなる。アルツト ゲーテも居ない、先生は如何するか判らないけれどね。問題はハンスだね。ハンスが居なくて、貴方は本当に、此処に残って大丈夫?」
詰まり、侑徒を守る人間が一人も居ない。宗一が、アウシュヴィッツに行く事は先ず無い。時一が居るから軍に居たもの、其の意味を無くせば居なくなるだろうとルートヴィヒは云う。
「先生と同じに軍を出ても、貴方は先生じゃない。一人で、此の独逸で、生きる事が出来る?」
差し出しされるショコラーデが歪んで見えた。頭から降って来る天使の声は奇妙で、嫌に神経を刺激する。
「私に付いて来た方が、賢明に思うね。」
神様を取るか、天使を取るか。
神様を選べば、自分は人間で居る事が出来るだろうが、掴みたい其の手は全く違う天使に向いて居る。
此の天使の手を取れば、答えは見えて居た。
宗一が気付かない程微かに繋いで居た手を、ショコラーデに伸ばした。
「其れで良い。」
何と無くで選ばれた侑徒の人生とて、元を辿れば何と無くで始まって居る。
何と無く京帝大に行き続け、何と無く医者になり、何と無く宗一と関わり、何と無く独逸に来た。
目的も何も無い、何と無く生きる人生。自分には似合いだろうと、苦いショコラーデを齧った。其の苦さに、涙が一つ流れた。
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