Meine Schokolade


聞かされた通り、夫の容姿は変わって居た。唯、其の姿は珠子に懐かしさを教えた。
黒い髪に、黒い瞳。
優しく微笑み掛ける姿に、遠い昔を思い出した。
「御帰り為さい。」
「ええ、只今戻りました。」
顔は確かに珠子に向いて居るのだが、視線は不自然に奥に向いて居た。
「抱き締めて…」
囁かれた言葉。互いの指先が触れ、其処から手繰り寄せる様に時一の指は珠子の腕を這い、肩に触れると強く引き寄せた。香った珠子の匂いに息を吐き、全てを記憶させる様に瞼を閉じた。
時一の一つ一つを丹念に指先に教え、頬を擽る珠子の指先に時一は笑った。
肌の柔らかさも、唇も、笑顔も、此の手の大きさも、熱さも、全てが一瞬で消えて仕舞うのかと、珠子は恐怖を知り、知れず指先を離した。
「愛してるわ、貴方の全てを。」
此の背中の傷さえも。
知らない筈であるのにと、珠子の言葉に時一はきつく心臓を締めた。頬から離れた珠子の手は其の侭背中に伸び、一度強く時一の肩を抱いた。其の侭波線を描く様に背中を撫で、服の上から其の形を指先に教える。シャツを、ジャケットの厚みを簡単に通り越す其の支配の象徴。知れず、爪を立てた。
「亡くなったそうね、彼。」
「ええ。」
悲しい?と珠子は聞いた。
「如何だろう、良く判らない。」
クラウスの事は、正直時一にも判らない。所詮は元帥と軍医の関係。愛人ではあったが、だからと云って余り感情は持ち合わせて居なかった様思う。元からクラウスに興味無かった訳では無いが、かと云ってあった訳でも無い。何とも曖昧な感情と不安定な関係で繋がって居た。其れを繋いで居たのは総統閣下であり、又珠子であり、時一の感情は関係無かった。
「新しく、証明書を頂きました。」
今度はきちんと絶対だと時一は笑って見せた。
ハーケンクロイツが薄く印刷された証明書、総統閣下のサインと其の上から印判が捺してある。其のハーケンクロイツは、珠子に少しの支配を教えた。
所詮自分も、其の支配下の人間なのかと。
見上げた時一の顔を暫く眺め、興味無く椅子に座った。
消えた珠子の気配に溜息を殺し、証明書を折り畳み、テーブルに置いた。
「怒ってます?」
「何が?」
云わずとも理解して居るだろうに、珠子の態度は冷たい物だった。謝罪した所で、クラウスとの関係やロッテへの行為が正当化される訳では無い。其れは時一も充分理解し、況して許しを貰えるとも思って居ない。唯、気持は現したかった。
珠子とロッテの受けた傷は、何依りも重いと考えて居る。
「ロッテは、居ます?」
「二階に居るわ。」
「呼んで来て貰えますか。」
口に付けて居たカップを静かに置き、時一を見る事無く二階に向かった。遠退く靴音と杖の音に顔を向け、辺りを確かめる様にソファに座った。持って居た紙袋の中を触り、二階から聞こえる声を聞いて居た。
「そうですか…」
「見事に星は散ったわ。」
何時に無く珠子は楽しそうに話し、良い気味、とさえ云った。其れに時一は怒りの感情は無かった。心の何処かで、時一もそう思って居たのかも知れない。
実際、クラウスがユダヤの章を身体に焼き付けられた時、衝撃よりも遥かに忠誠心の方が勝って居た。
「時一さん。」
「嗚呼、有難う御座居ます。ロッテ。」
こっちへ、と手招く時一の姿にロッテの足は竦んだ。姿が変わったからでは無く、首から見えたアイアンクロスに身体が動かなくなった。金縛りにあった様にロッテは動かず、項を静かに押さえた。
「時一さん。」
「ロッテは?」
何時になっても傍に来ないロッテに首を傾げた。
揺れるアイアンクロス。
視線を不自然に揺らすロッテを労り、無言で時一に近付くと其の飾りを引き千切った。行き成り感じた首の痛さに、其れが切れた事を知る。
「珠子さん…?」
「ロッテに…、ロッテにこんな汚らしい物を見せないで。」
未だユダヤの星の方が増しだと、床に叩き付け様としたが、珠子に其れは出来無かった。医者として其の功績を讃えられた其れを、珠子に壊す事は出来無かった。
痛い程握り締め、膝に力無く乗る手を返し、そっと乗せた。
「ロッテは、此れが怖いの。千切って御免為さい。」
やんわりと手を握られ、其の言葉に時一は辺りを見渡した。
見えないが、感じた。あるべき物が無い。
そう時一は、“其れ”がある方に顔を向け、気付いた珠子は引き攣った。
「珠子さん…」
「御免為さい、ロッテの為に…」
「ハーケンクロイツを、何処にやった…?」
言葉を遮り、絶対あるべきである筈の無い忠誠心に額を押さえた。
「無い訳では無いわ、仕舞って居るだけ。」
「其れじゃ意味が無い。忠誠心は掲げる事に意味がある。」
今直ぐ此処に出せと云われたが、珠子には出来無い。ロッテを思うのもあるが、出す事が出来無い。
無い物を出せと云われて居るのだから。
「判ったわ。でも、ロッテを部屋に入れてから。駄目かしら。」
「忠誠心が、一番怖いか。」
鼻で笑い、壁から顔を逸らした。
忠誠心、何が忠誠心だ。ハーケンクロイツは支配では無いか。
珠子はそう思い、けれど何も云わない時一に安堵した。硬直するロッテの身体を摩り、優しく時一の傍に行く様促した。
「大丈夫よ。」
「奥様…」
怖い。其の軍服が怖い。自分に向く其の目も怖い。唯、其の黒髪と黒目には安堵を覚えた。若し此れが、今迄通りのブロンドに碧眼であればロッテは近付く事は疎か、其の場にも居なかったであろう。ずっと見て来た時一の姿に柔らかい笑み。
「先生…」
「いらっしゃい。」
手招く腕が羽根の様に揺れる。
そうだ何も怖がる事は無い。だって彼は天使なのだから。
そう揺れる腕にロッテは頷き、伸ばされる指先に触れた。其の侭ゆっくりと横に座り、自分を捉らえる事の無い目を見た。頭に触れる指先、髪の長さに時一は頷いた。
「残念だけど僕は、もう、誰かを治す事は出来無い。ロッテの傷も、今の僕には判らない。其れが、悲しい。」
医者として、此れ程悲しい事があるか。其の傷に触れる事の出来る人間が目の前に居るのに、其の傷が判らない。曖昧にしか判らないロッテの傷に、時一は触れる事さえ出来無かった。
今直ぐに、手を差し延べる事が出来るのに。
心の傷を治すのに必要なのは愛だと云う人間が居る。確かに、愛は必要かも知れないが、其れは結局、何の解決にも為らない。結局は、骨折した腕に当て木をする様な、応急処置にしか過ぎない。必要なのは、医者、そして薬。時一には、愛しか無かった。
軍服を見ない様にかずっと俯くロッテの頬を触り、優しく叩いた。
「眠れる?」
「いいえ…。寝ると…」
「良し、云わなくて良い。鏡は見れる?」
ロッテは首を振った。
鏡を見る事、今のロッテには不可能であった。見れば切り落とされた髪を嫌でも視界に入れ、首の烙印を思い出す。笑い乍ら自分を凌辱する声、顔、身体、匂い、全てを思い出し、汚れた自分を知った。
「そうだと思って、少し早いけど、誕生日プレゼントをあげるよ。」
頬から手を離し、床に置いた袋を膝に乗せた。
「さてさてロッテ嬢は、どれが御好みかな?」
袋をひっくり返し、出て来た大量の髪の毛に珠子は小さな悲鳴を漏らした。生首が出て来た様な、余りにも悍ましい光景であった。
「驚かさないで…」
「赤毛だけ持って来た。黒髪もあったけど、アルツト メンゲレが駄目だって。」
ロッテは赤毛で無ければ駄目だと、訳の判らぬルートヴィヒの持論を素直に受け入れ、其の一つを取った。
「短いのは?見えないけど、似合うかも。多分似合う。」
適当に乗せ、珠子は其れを時一の後ろから見た。
「駄目。長いの。可愛過ぎるわ。」
「珠子さんと同じ髪型のもある。でも屹度似合わない。」
「何故よ。」
「ロッテ、美人だもん。」
珠子を不細工と云った訳では無く、在の独特な髪型は童顔の愛らし顔にしか似合わないと云う積もりで時一は云ったのだが、完全に不細工方面に取られてしまった。珠子は数回頷き、同じ髪型の鬘を時一に乗せた。
「あら、良く御似合いよ。今日から其れを被ったら?」
「い…嫌ですよ。軍服にこんな髪型してたら、唯のいかれぽんちじゃないですか。革命か反乱が起きそうだ。」
「良いじゃない、起こして見たら?革命を。仏蘭西万歳っ」
仏軍の捕虜達が云う台詞をまさか妻の口から聞く羽目になる等、無駄に突き出された珠子の右腕を顔の横に感じた。
結局其の侭其の鬘は時一の頭上で揺れ遊び、手当たり次第ロッテの頭に鬘を被せた。然し珠子は首を振り続け、一番最初に乗せた鬘が良いと手にした。其の時、箱に入った一つが床に落ちた。此れは鬘では無いのか、中は何であろうかとロッテは手を伸ばした。
「其れよ…、其れが良いわ。」
箱から出て来たのは、紛れも無くロッテに似合う鬘。失われた自分の髪が、目の前に表れた喜びだった。奇麗に梳かれ、切り落とされる前の髪型が其の侭形になった様な鬘を無言で頭に乗せ、左右に流れる三つ編みに、涙が流れた。
「私の、髪…」
強く握り締め、声を漏らした。何故此れだけ箱に入って居るのか、珠子は不思議に思い時一に聞いたが、時一は入れた記憶は無いと云った。だったら、答えは一つであった。
「マイネン ショコラーデ、私は、此の髪型の君が一番好きだね。」
まさかとは思ったが、在のルートヴィヒがこんな洒落た、仏蘭西人みたいな事をするのかと、第三者である時一は恥ずかしくなった。普段からも確かに紳士的ではあるが、マイネン ショコラーデと来た。客観的に見るから良く判るルートヴィヒの気障な行動に顔が火照った。
「熱い熱い。」
余所でやってくれと、顔を手で扇ぐ。箱に貼付けてあるカードを珠子は剥がし、笑顔でロッテに渡した。
「アルツト メンゲレ、いえ此れは貴女に恋焦がれる、ルートヴィヒさんからかしら。」
受け取ったカードを歪む視界で眺め、額に付けた。
「アルツト…メンゲレ…」
「貴女は、一人じゃないわ。」
皆貴女が大好きよ。
ずっと傍に居る。
珠子はそう云い、自分の髪を結んで居たリボンを三つ編みに添えた。




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