Heil-万歳
初めて見た本部に、車から下りた珠子は息を吐いた。長い階段の先に総統旗が靡き、階段に続く道にはハーケンクロイツが均等に並んで居る。誰の手も借りず珠子に続き車から下りた時一は党本部を眺めた。映らない総統旗に顔を向けた時一に数人がハイルと右腕を突き出した。数人の声に時一は誰に向いて良いのか判らず、真直ぐ総統旗に向かい右腕を伸ばした。
「此処に、数百、数千と云う人間が、総統閣下の為に集まります。」
珠子の杖音に混ざり合う時一の声。道から見渡した広場に、密集する群集は安易に想像出来た。皆総統閣下に向かい、右腕突き出し拍手喝采の中ハイルと叫んで居るのだろう。
本部入口には、総統閣下とハンスが居た。其れに気付いた時一は又右腕を突き出し、珠子は其れを眺めて居た。
何時からか珠子は、誰に会っても挨拶はしなくなった。初めの頃は時一達と同じ様に、冗談交じりに腕を出して居たのだが、珠子でも気付かない間にそんな冗談さえ忘れてしまった。万歳は今最もウケる挨拶だ、と総統閣下は珠子に笑い乍ら教え、珠子は其れに笑って居た。ハンス達が冗談交じりに珠子に其の挨拶をした時も笑って居た。恵御と二人で、馬鹿何だから、と笑って居た。
其れが、何時の間にか、ハーケンクロイツが肥大するに連れ、此の国が赤く染まるに連れ、裏切りが重なるに連れ、忘れてしまった。
唯無言に腕を突き出す時一を、珠子は眺めて居た。
「総統閣下。僕の最期は、妻に見届けて貰います。」
ですから貴方は、何処かで、そんな人間が居たなと、思って居て下さい。
そう云った。
「其れで良いのか、タマコ。」
「ええ。」
瞬きで返事をし、時一の手を握った。
「私が、見届けますわ。」
総統閣下は頷き、薄く笑った。ハンスの肩を数回叩くと何も云わず踵を返し、旗の下に消えた。
「こっちだ。」
二人を誘導するハンスは、途中会ったルートヴィヒと侑徒も無言で連れた。時一の死亡確認と柩の中に入れるのを二人は任された。並ぶ三つの白い軍服、其の前を行くハンスの黒い軍服。司祭の後ろに付いて行く天使に珠子は見えた。
五分程歩いたか、本部裏にある建物が見えた。長い平屋で、高い木が周りを囲んで居る。茶色の屋根や白い外壁に其の影が映り、木の御蔭か暑さが薄い。何の目的で作られたのか、総統閣下さえでも判らない。ずっと此処にあると、存在は皆知るもの前を通り過ぎるだけで誰も入らないドアーを開けた。目的が無いのだから鍵は締めない無いとハンスは云うが、矢張り普段は施錠されて居る。今日は特別に開け、長い廊下の先には黒い柩が置かれて居た。其れを見た珠子は現状に足が竦み、入口で一端止まった。柩を凝視する珠子に気付いた侑徒はやんわりと珠子の手を握り、其れが見えない様、前を歩いた。
自分達は任務を遂行するだけ、と柩の置かれる部屋の前に来た時、ルートヴィヒと侑徒は数歩下がり隣の部屋に入った。ハンスは見えない時一の代わりにドアーを開け、一瞬だけ横目で中を見た。そして二人と同じ様に隣の部屋に入った。
ドアーの先に、簡易ベッドに、宗一は座って居た。柔らかく笑い、後ろから光が射して居る。其れは丸で、天使を迎えに来た神様に珠子は見えた。
天使の最期には、全てが揃って居た。
司祭はハンス、天使はルートヴィヒ、そして神様は宗一。
天使に伸ばされた神様の手を珠子は掴み、額に付けた。
「後は、御願い。」
「心配せんと良え。」
ドアーに嵌め込まれて居る覗き窓から、緩く笑う神様の目を見た。簡易ベッドに覗き窓と云う作りを見ると、此処は医務室か何かなのであろう。
暖かい日影が宗一の背中に伸び、少し暑く感じる。
帽子を被り直し、額に滲む汗を手袋に染み込ませた時一は深く息を吐いた。
「ハーケンクロイツは、柩には掛けないで欲しい。」
「要らんの。」
簡易ベッドに折り畳まれ乗る旗を撫で、時一を見た。
時一は首を振り、自分の両肩を掴んだ。
「包んでくれ。」
其れがアーリア人としての誇りだ。
薄く床に向かって笑った。宗一は数回頷き了解し、ハンスから渡された銃を渡した。
掌に感じる重さ、しっかりと握り締め、宗一に向いた。満面の笑みで握り締めた銃を口元に寄せた。
「一足御先に。兄上。」
「嗚呼、うちも、直ぐ行くよって。」
掠れた宗一の声に時一は顔を歪ませ、小さな喘ぎを繰り返した。銃口に吐息が篭り、先を湿らす。
Sieg Heil.
Heil Fuhrer...!
上顎に押し付けられた銃口が一気に熱くなり、叫ばれた忠誠の言葉の様に弾は頭に向かった。凄まじい発砲音に珠子は右耳を塞ぎ、然し目はきちんと時一を見て居た。見えて居た後頭部は発砲音の数秒後、ゆっくりと下に消えた。そして、代わりに覗き窓から見えたのは、下に視線を向け薄く笑う宗一の顔だった。暫くすると床の升目に添って、部屋の中から血が流れて来た。靴先に触れた其れに珠子は逃げる様に数歩動いた。其れに気付いたのか、ドアーは開く。がつんと足が柩にぶつかり、バランスが崩れた。柩に座り込み、笑いが出る程震えて居る自分の手を見た。余りの面白さに涙は無く、見えた部屋は無性に可笑しかった。
隣の部屋で、壁に耳を付けて居たルートヴィヒは、微かに聞こえた音に身体を揺らした。聞こえた音にハンスは頭を抱え、嗚咽を漏らししゃがみ込んだ。
「トキイツ、トキイツ………」
嗚咽を繰り返すハンスに、壁に耳を付けた侭目を瞑るルートヴィヒ。侑徒は呆然と瞬きを繰り返し、耳鳴りを聞いて居た。其れに紛れたルートヴィヒの弔いのアリア。ハンスは顔を上げ、仕事だ、そう立ち上がった。
瞬間だ。
「あーっはっはっはっはっ」
アリアの旋律に、珠子の奇天烈な笑い声が重なった。とても美しいとは云えない旋律、尋常では無い笑い声であった。時一が死ぬと云う其れを覚悟して居たが、矢張り耐え切れ無かったのかと、ハンスは眉を顰めた。
然し。
「嗚呼…っ」
時一を確認し様とした侑徒は悲鳴を発した。
「先生ぇっ、嗚呼っ先生ぇえっ」
全てを包む様に時一の上から重なる宗一の身体。しっかりと時一の手を握り、床には血の付いたメスが光って居た。
握り締める手には旗先が繋がり、時一の身体は旗と宗一に包まれて居た。
「ソウイツ……?」
何故宗一が時一の身体に重なって居るのか、普通に考えれば判る筈が、今のハンスには判らなかった。
「先生……………?」
珠子の悲鳴も侑徒の悲鳴もルートヴィヒには判らなかった。暢気にアリアを口遊み、行き成り見た光景。
「あれ、先生…?」
ハーケンクロイツの傷痕が浮く手で旗を握り、項垂れる顔はハーケンクロイツにキスをして居た。
「先生、死んでるよね…?」
宗一が死ぬ事等誰も予測せず、唯一人、予測して居たのは、折り重なる二人をにやにやと眺め笑う珠子だけであった。
「タマコ…?」
「良いのよっ」
誰にも文句は云わせないとばかりに珠子は声を張り上げ、ゆっくりと立ち上がると二人に重なった。重なる二人の手に自分の手も乗せ、未だ暖かい宗一の背中に涙を流した。鼻を埋める血の臭い、吐きそうだった。けれど、信じられない程清々しい気持を持った。
「良いのよ…此れで…」
私達は“彼”に全てを返しただけ。
私は彼を愛して居た。
彼は私を愛して居た。
“彼”は宗一さんを愛して居た。
宗一さんは“彼”を愛して居た。
私達は“彼”を宗一さんから奪ったに過ぎないの。
私達と、死ぬ本の一瞬前永遠の愛を手に入れたの。
“彼”は宗一さんと、永遠の愛を手に入れたの。
ハーケンクロイツの其の下で。
残念だわ、時一さん。
貴方は、ヨーゼフ・ゲーテでは死ね無かった。
貴方の其の、ハーケンクロイツの下で笑う顔は“彼”。貴方では無いわ。
貴方は最後の最後に、絶対な忠誠を誓う人間を裏切ったのね。
宗一さんは、其れに気付いたに過ぎないの。
「問題は無いわ。」
そう、何も問題は無い。
初めから無かった事よ。
ハーケンクロイツも、赤い帝都も、私と云う人間も。
況してや、“ヨーゼフ・ゲーテ”何て人間は。
確かに存在するのは、宗一さんを愛する“木島時一”、其れだけよ。
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