黒猫楼


絵を描きたかった。絵を描ければ、何処でも良かった。
絵の勉強をしたかったけれど、兄は軍人になれと云った。
馬鹿らしい。
軍人になって、何の得がある。其れで心が満たされるか?腹が膨れても、心が膨れなければ意味が無い。俺は、俗世界等に、興味は無い。あるのは、俗から離れた裏の世界。
独学で絵を知り、自分の世界を作った。
俺は弟子でなければ、師匠も居ない。此れは頗る貧しい事だと思う。尤も、こんな俺を弟子にしてやろうという、大層な先生も居ないが。居るとすれば、随分前に没した、俺に絵の世界の素晴らしさを心に教えてくれた絵師だろう。名前は、簾佐野恭一。緊縛絵師だ。大概の奴は、彼の名前を聞いたら眉を顰める。彼の世界、其れは素晴らしいのに、世間は其れを認めない。
何故俺がそんな絵師を知ったか。
父親の部屋を漁っていたら、其の絵が出てきたからだ。兄はそんな世界を嫌い、父親の物で捨てられたのは、此れだけだ。だから兄は、未だに女を知らないのだ。情けない。其れでも陸軍か。
簾佐野恭一は、何故か同じ女ばかり描く。妻、という訳でも無さそうだ。聞いた話に依ると簾佐野恭一は、死ぬ迄独身で居た。では、此の人物は一体誰であろう。俺が簾佐野恭一に興味を持つ一つの要因だ。簾佐野恭一と仲良くしていた人物は、此れは二人の女が居るという。俺に其の違いは判らず、無理も無い。其の二人の女は、一卵性双生児の様に似ていたというから。唯、顔がはっきりと描かれた場合、其れは俺でも判る。口元に、黒子が有るか無いかだ。
簾佐野恭一の絵は、大層高額だ。
簾佐野恭一本人に価値があるからでもあるが、描く人物に一層の価値がある。
「新、此処に居たのか。」
探していたのだろう、折の髪は少し乱れていた。畳に並ぶ簾佐野恭一の絵に、折は目を少し開き、目を閉じると座り一枚手に持った。折も、簾佐野恭一が好きである。同じ様な絵を描いて欲しいと頼まれたが、俺は御免だ。緊縛絵は確かに素晴らしい。素晴らしいが、其の姿を折がすると思うと、悲しくなる。
折は何時でも、客の上に居なければいけないのだ。決して、縛られてはいけない。
「公爵が来た?」
「いいや、公爵は今忙しい。」
公爵、と呼ばれる男の名は、神楽坂雄一。物書きだ。此の黒猫楼一の、大客である。其の公爵が来ないと、此処は少し寂しい。懐が。反国剥き出しに、軍を文字で貶す。忙しい、と折が云ったのは、今其の真最中だからだ。
「規制が掛かっているのに、売れるのは何故だろう。」
俺の疑問に折は視線を合わせた。
「俺達の様に、望む人間が居るからだろう。」
人は、禁止をされれば、其れを求める。公爵は其処に目を付けたのだ。最初は小さな雑誌に軍批判を並べていた。当然軍から鋭い目を向けられ、拘留される度、公爵の軍批判は大きくなっていった。大衆は其れを望み、本を出す迄になったのだ。
「此の間、又軍に連れて行かれていただろう。」
「嗚呼、其れで忙しいのか。」
俺が笑うと、折も笑った。
「でも寂しいな。」
折は、人は嫌いだが、公爵は好きな様で、時折寂しいと口に出す。俺も寂しい。
俺は懐が、折は心が。
「処で、客が来たんだろう。浮雲さん。」
だから俺を探していた。折の客では無く、俺の。
「嗚呼、井上様だ。」
軍は嫌いだが、元軍人は好きだ。特に此の、井上という男は。俺の父親を心底嫌い、簾佐野恭一の事を詳しく教えてくれる。簾佐野恭一の描く女は、男の…
「如何する、通すか?」
「いや、良いよ。俺が行くから。」
畳に広がる絵を、俺は丁寧に纏めた。




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