黒猫楼
化粧の匂いは充満しているのに、此処に女は一人も居ない。居るのは、女の格好をした男だけ。楼主は俺で、浮雲を花魁とする男女郎は八人だ。後番台やら何やらで、総勢二十人の小さな楼。此の黒猫というのは、唯単に俺が黒猫が好きだからだ。俺の傍には二匹の黒猫が居る。一匹は本物の黒猫で、もう一匹は浮雲の比喩だ。浮雲が其の黒猫を抱いていると客から、どっちがどっちか判らんぞ、すると浮雲は、俺が産んだんだ、そう客を笑わせる。
花魁道中、此れを知っているか。其れは見事で綺麗な世界だ。うちの浮雲さん、此れに一度出た事がある。花魁が、誰でも道中が出来る訳ではない。金のある限られた花魁だけで、道中をするというのは、花魁にとって、夢だ。なのに浮雲、最初は乗り気で無かった。自分は男で、抑人に見られるのが余り好きでは無い。言い出したのは、公爵だ。
「花魁道中、浮雲はしないのか。」
浮雲は煙管の灰を落とすと、盛大な溜息を吐いた。
「あのねぇ、公爵。道中には、凄い御金が掛かるの。今不景気なの。第一、誰が見るんだ。男花魁の道中なんか。」
「吉原の花、って云われたくないか?」
「嗚呼、御免だね。黒猫楼は金が無いんだ。誰かさんが一ヶ月来なかったから。」
公爵、此の一ヶ月、軍に拘留されていた。公爵は浮雲の腿から頭を少し浮かせると、きつそうに首を曲げた。
「私だって、好きで拘留されたんじゃないよ。」
「趣味な癖に。」
「趣味は軍の批判。誰が好きで拘留されるか…」
首から力を抜き、浮雲の腿に再度顔を埋めた。膝枕が、此の公爵と浮雲の会話姿勢だ。
「又、しこたま殴られたの。」
俺が聞くと公爵は袖を捲り見せた。変色した皮膚。今回の拷問の残忍さが伺える。
「熱湯だよ。信じられるか?好きにして居ろと偉そうに云いやがったから寝てやったんだ。そしたら此れだ。何を寝ているんだ、好きにして良いと云ったのはそっちだろう。」
「物描きの腕なのにねぇ…」
浮雲は腕を摩り、公爵は鼻で笑った。
「あいつ等は馬鹿だ。」
浮雲の項を撫でていた左手を離し、振る。
「私の利き手はこっちだ。馬鹿め。」
熱湯を掛けられたのは右腕。しなやかに伸びる右手とは逆に、左手は関節にたこが出来ている。奴等は其れも知らず、自分達と同じ様に右腕に熱湯を掛けた。
「自分達の大将さんは、どっちの手を使っているか、今一度考えたら良い。」
陸軍、海軍の大将は、揃って左利き。其れさえも、公爵を拷問した奴等は知らない。
「大体だ。腕を縛っておいて、名前を書け。おかしいだろう。出来ないと殴るんだ。口で書けというのか。まあ、書けん事も無いがな。」
公爵は口を開き、中から厭らしく舌を出した。
「公爵は、舌が二枚あるから。」
「…其れは浮雲だろう。」
俺は笑いが出、持っていた筆が震えた。いかん。浮雲の輪郭が歪んだ。くしゃくしゃと紙を丸め、白い紙を置いた。
「ほら見ろ、浮雲が二枚舌だから絵が失敗したではないか。」
「俺は嘘吐きじゃないよ。仮に俺がそうだとして、新が失敗したのと俺、関係無いよね。公爵こそ二枚舌じゃないか。」
「客に好きだ好きだ云ってるのにか。」
浮雲と目が合った。何だか、少し怒っている。浮雲が客に、そんな事を云う事が無いのは、公爵が一番知っている。云われた事が無いから。言い掛かりを受けた浮雲は、少し怒っているのだ。
二杯舌で無い人間等、此の世に居る訳無い。皆必ず、八方美人の二枚舌だ。
「処で公爵。」
「ん?」
「何で行き成り道中の事を。」
公爵は浮雲から離れると胡坐を掻き、首を捻った。見たいと思っただけで、特に理由は無いらしい。暇だから家の書庫を漁り、其の風画を見た。だから見たいと思った。此の公爵は、何時でもそんな調子だ。理由があるから何かする訳ではなく、心が其れを望むからする。理由ない行動は、そうして公爵の心を豊かにする。理由に格好付けて何かをするより、ずっと素直で、ずっと良い。理由を求めるのは、低俗な人間だのする事だと、公爵は云う。死ぬのに理由は要らない、生きるのに理由は要らない、人を愛するのに理由は要らない。意味が要るのだと、云う。
だから道中をするのも、理由は無い。興味本位いう意味だけがある。
「金が無いなら俺が出そう。」
公爵は、何か楽しい事が起きると思うと、一人称を荒く変える。本気が伺える。
そんなで、うちの浮雲さんは道中をした。吉原での歴史に残りそうな程金を掛けて。公爵一人なら、此処迄出来なかったかも知れない。もう一人、浮雲の道中に金を出した人間が居る。井上の旦那だ。例の如く簾佐野恭一の事を話に来た旦那に、今度うちの浮雲が道中をするんですよと、世間話の様に云った。旦那は、へえ、と目を輝かせ、小銭でも出す様に大金を置いて行った。其の事を、道中が終わった後公爵に云うと、物凄く項垂れていた。旦那が嫌いだからではない。何だか負けた気がしてならない為だ。
「見もしないのに、餞別だと大金を置いていく…一体どんな金持ちだ…」
公爵の軍批判は、留まる所を知らない。
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