崩壊するしか道が無い


珍しく、神楽坂家の税理士から連絡が来た。私にも勿論税理士は付いているが、其れは印税の管理の為であって、神楽坂家とは関係が無い。そうそう、神楽坂家の税理士はこんな顔をしていたなと、思い出す。名前は…何だったか。
「佐伯です、旦那様。」
そう、佐伯。痩せこけた頬をし、気味が悪い男だ。其の佐伯が私に一体何用か。
「御話は、此れなのですが…」
気拙そうに差し出された一枚の紙。其の紙に、愕然とした。
佐伯に任せ切りなのが抑の間違いだった。何故、此の家の管理位、自分でして来なかったのだろう。差し出された紙に、私は愕然とする事しか出来なかった。
「総資産…五…」
そんな馬鹿な話があるか。何故、半分以上も、そして各地にある家も無いのだ。
「何だ…此れは…」
私の貰う印税依り遥かに少ない総資産。此の家も、気付かぬ内に競売に掛けられていた。資産等何処にも無く、あるのは借金だけだった。
訳が判らなくなり、額を押さえた。
私がこんな浪費をする訳は無い。第一、私は神楽坂家の資産に手を付けた事が一度も無い。全て印税で、浪費をしてきた。問題は無いだろうと高を括り、神楽坂家の資産に興味も無かった。
「妻は…何処だ…」
妻以外に、資産を動かす人間は居ない。此れで他に身内が居れば妻以外の線も考えられたが、生憎私は、前の大戦で身内全てを亡くし、十三歳という若さで神楽坂公爵となった。佐伯は、其の前からずっと神楽坂家に仕えている。子供の私に全ての管理を任す様云った。
若しや、佐伯が動かしたとでも云うのか。
いや、そんな訳は無い。此れでも私は物書きだ。表情と態度で人間の心理位、判る。縦しんば佐伯だっととして、其れを私に報告するか。私なら其の侭トンズラする。
「妻は何処だと、私は聞いている…」
声は震え、無言で青褪める佐伯の肩が竦む。
「云え!妻は何処だ!」
声を張り上げるつもりは毛頭無かったのだが、感情に支配された私は、自分を止められず佐伯の胸倉を掴み上げた。
「旦那様!暴力は!」
立っていた手伝いが慌てて私の手を掴み、其の数に、力が抜けた。
「何故、御前しか居ない…」
十人は居た筈の手伝いが、たった一人。帰った時、豪く静かだなとは思った。けれど妻が居ない事で、どうせ付き添いでもしているのだろうと、気にも止めなかった。
手伝いはそっと手を離し、俯いた。
「他の者は、全て、此の屋敷から出てゆきました…」
「出て、行った、だと…?」
「はい…」
理由を聞かずとも何故出て行ったのか判る。妻が、給料も与えず追い出し、又出て行ったのだ。たった一人残っている手伝いは、私の幼少の頃から居た手伝い。情けで、此処に残ってくれている。
妻は居ない、手伝いも資産も無い、自分の置かれた状況に怒りは無くなり、呆れと孤独が溢れた。笑う事しか出来ず、顔をくしゃくしゃにした。
「旦那様…」
「何だ…何だ此の裏切りは…」
あんなに良い思いをさせていたではないか。金だけでは、足りないとでも云うのか。
「泣かないで下さいませ…」
手伝いの手が酷く懐かしく、力が抜けた私は床に座り込んだ。
「私は…如何したら良いんだ…」
顔を覆い泣く私を手伝いは抱き締めてくれ、背中を擦ってくれた。昔と同じ様に。
「坊ちゃま。雄一坊ちゃま。」
泣く私を、何時もこうしてあやしてくれた。結局頼れるのは、自分と、昔から居た人間。情と絆なのだ。
「息子は、何処だ…居るんだろう…?」
妻の事だ。息子は置いていっているだろう。昔から妻は息子に興味関心、愛情も無い女だったから。乳を与える事もせず、乳母に頼った。其の乳母と私を夫婦と間違える程、妻は何もしていない。
したのは、神楽坂家への裏切り。
其れのみだ。
「清人坊ちゃまを。」
佐伯に云われ、手伝いは私から手を離すと静かに頭を下げ息子を呼びに行った。頭等、下げる価値は私には無いというのに。
現れた息子の姿に、安堵の息が漏れた。
「き…よひ、と…」
「御父様…?」
「清人っ!」
居てもたっても居られず、私は息子を抱き締めた。行き成り抱き締められた事に息子は狼狽し、不思議な顔を向けている。
「御仕事は、もう宜しいのですか…?」
「仕事等…」
私の仕事とは、一体なんだ。物を書く事か、幽閉される事か、其れ共、浮雲と遊ぶ事か。私が居ないのは仕事の為と何時も聞かされていた息子。
嗚呼、そうか。
裏切っていたのは、私の方なのか。


――物書きの妻なんて、素敵。
そう云った妻の幼い笑顔を思い出す。

――私は物書きの妻になっただけであって、反国者の妻になった覚えは無いわ。

――貴方が幽閉される度、私がどんな気持か判る?反国者として世間から冷たい目を向けられるのは良いの。私が思うのは、貴方が生きて帰ってくるか、其れだけよ。


何故、今になって其の言葉を思い出すのか。愛していてくれていたのに。
けれど、息子を愛さないのと神楽坂の資産を使い果たす其の行為は、正当化されない。妻を裏切ったのは私だ。妻だけを。だが妻が裏切ったのは私ではない。神楽坂という名前を裏切ったのだ。
「妻と、離縁する。清人は、私の元に。」
「旦那様、其れは奥様の方から申し受け無いと。其れに、…私は税理士ですが、反国者に親権は渡らないかと…離縁しても、意味は無いかと。」
息子の傍に居たい為に、妻と居た。金も使いたいだけ使わせた。結果が此れだが。もう、一緒に居る意味が無い。
「死と隣り合わせの印税を使われたら、敵わんからな…」
「…坊ちゃま。」
釈放され、久し振りに帰った家は、此の有様だった。




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