楼主の消えた黒猫楼


戻って来た折は、以降部屋から出様としない。雄一も一緒だろうと思ったが一人で、泣いていた。腕に抱いた猫を新は一瞥し、何か云おうと思ったが結局何も聞け無かった。
「浮雲兄はん、どないしはったんどす?」
藤波の問いに新は首だけを傾げ、客の所に戻した。
其の晩だ。
暖簾を潜り現れた人物に新は顔を上げた。初めて見る顔で、息を吐いた。
「吉原の規則を御存知で?」
云った新に暖簾を潜った男は笑い、其の作られた笑顔に気味悪さを新は感じた。
「いいえ、私は客ではありませんよ。」
妙に語尾を伸ばす、丸眼鏡を掛けた男。
「客じゃない…?」
「はい。」
ずっと同じ笑顔でいる男。記帳を閉じた新は立ち、男を過ぎると暖簾を外した。
此れが、本当に暖簾引きになると思わず。
客では無いのなら上がらす事も無いだろうと、其の場に座らせた。
暖簾を片付けた新に男は云った。
「私、考古学者の斎藤八雲と申します。」
「…はぁ。」
考古学者が何用か。其の笑顔と云い、肩書きと云い、全く気味の悪い男だと新は目を向けず番台に座った。
「其れで、其の考古学者さんが何用です?歴史物でも発掘に?」
「此処に其れ程歴史があるとは思えませんが。」
楼内を見渡した八雲は無表情だった。
何だ、喧嘩を売りに来たのかと新は商売の邪魔になるから帰って欲しいと八雲に噛み付いた。其の威勢の良さに八雲は少し笑う。出た八雲の言葉に新は睨み付けた。
「嗚呼、其の目。本当に父君そっくりだ。」
「…何しに来たんだ。はっきり云え。」
「私、本業は考古学者ですが、海軍大尉でもあります。其れと海軍大臣。」
「へえ、御苦労様で。」
大嫌いな軍人を目の前にした新は顔を逸らし、もう一度、帰ってくれ、そう云った。けれど八雲は腰を上げる気配は無く、気味の悪い笑みを浮かべているだけ。床に手を付けた侭八雲は少し腰を浮かし、新の耳元に口を寄せた。
「悪く思わないで下さい。此れは元帥命令。」
何が、そう云う前に見せられた写真に新は息を止めた。背中が冷たくなり、血の気が引いたのが八雲に判ったのか、鼻で笑われた。
「此の女性、御存知ですね…?」
抱き合う写真を見せておいて何を云うかと、新は小さく頷いた。
「恋人のウチダ マコさん…間違いありませんね?」
「嗚呼…」
新の顔が見る見る強請り、八雲は笑った。
「彼女はジャーナリストで、一度海軍批判を為さいました。我が元帥を、白女狐の能面教祖、海軍を、いかれた宗教団体。そう申しました。」
だから、目を付けられたとでも云うのか。
「あれは…」
声が震える。
「本心では…ありません…斎藤、大尉…」
新の怯え様に八雲は笑いが止まらなかった。海軍の恐ろしさは、陸軍以上。捕まれば、雄一位では済まされない。
「新さん。私は何も、彼女を如何こうし様と云う訳ではありませんよ。海軍とて、こんな女の言葉、気にも止めて居ません。」
其の言葉に新は少し安堵し、息を漏らした。
なら何故八雲は云ったのか。此れは唯単に、新の怯えた顔が見たく、じわじわと精神的苦痛を与えたいが為の、御遊び。予想以上の効果に驚いた位だ。
「暫く彼女と貴方を調べさせて頂きました処、新さん。貴方、本当に彼女の事を知ろうとされない。何故です?」
何故、そう聞かれても答えられない。知る理由が無いから。愛して居ないからでは無い。愛して居るから、何も知らなく共愛せた。其れだけの話。其れを何故八雲に指摘されなければならないのか。俺の勝手だろうと云いたい。
無言の新に八雲は息を吐き、長い髪を掴んだ。
「…っ。」
「無知程深い業罪は無いのですよ、新君。」
「何、を…」
鼓膜に叩き付けられる八雲の低い声。
「貴方の御気持、御察しします。益々父君を嫌う羽目になるとは。私が貴方でしたら、墓石を薙ぎ倒します。」
鼓膜と頭に叩き付けられた真実に、新は目を見開いた。何度も反響し、身体から力が抜け、正座を崩した。天井を見た侭見開かれた片方の目から涙が流れ、八雲が髪から手を離したのにも気付いて居なかった。
「父…上…」
新から身体を離し、八雲は腰を上げ、声を掛ける事もせず店の外に出た。
「………此れで…?」
「嗚呼。」
風に乗る紫煙。
「加納、元帥…」
「…加納、か。」
八雲は唇を噛んだ。
「御子息に、愛は無いのですか…」
吊り上がる其の目は、新と同じだった。
「木島元帥…」
鼻で笑う音。
「俺の息子は一幸、唯一人だ。在の双子が息子と思うと、へどが出る。雪子には悪いがな。」
地面に落とした煙草を踏み潰し、視線を上げる。
「悪かったな、加納。御前の大嫌いな煙草だ。死ねば良い。」
全く全く、そう聞こえたと思ったら、吊り上がった目が切れ長の知っている目に変わった。気分悪そうに壁に腕を付き、噎せる。
「此の御馬鹿さん…ワタクシは菅原さんや本郷さんの様には参りませんよ…」
「加納…元帥…?」
「嗚呼…駄目です…吐きます…」
其の言葉と一緒に胃液と唾液が口から溢れ出た。背中を摩る事しか出来ない八雲は、ずっと摩っていた。
「全く全く…金輪際貸しません…大体…早く成仏為さい!此の御馬鹿さんっ!」
――成仏はして居るさ。暇何だ。
頭に響く声。
「御黙り為さい!」
「申し訳ありませんっ」
自分に云われたと勘違いした八雲は慌てて背中から手を離し、敬礼と謝罪をした。




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