楼主の消えた黒猫楼
こんな運命、あんまりだと雄一は放心した。天井から垂れる新の身体に、折は泣けず、上を向いた侭座り込んだ。最期に描いた新の絵。此れが最後に選んだ人間なのか、と雄一は遺書共々破りそうになった。
「木島…」
恨めしそうに呟き、後ろに現れた気配に雄一は振り向いた。
「おやまあ…」
海軍元帥が、何の様だ。
無遠慮に加納は部屋に入り、其れに続いて八雲も入った。天井から新の身体を下ろそうとした八雲の腕を雄一は止めた。
「軍人が…触るな…」
其の顔に八雲は矢張り笑みを蓄えた侭眉を上げた。
「何方かと思えば、陸軍批判家の神楽坂公爵。」
「おやまあ、彼が。」
ははあ、と加納は息を吐き、冷たい目を弓形にした。陸軍批判は別に良いと加納は思っている。けれど、此の木島批判家の雄一だけは嫌いだった。雄一を一瞥した加納は、床に座り込む折の前に膝を屈した。垂れた髪を払い、頬に触れる。
「御可哀相に…」
云った其の声からは、そんな感情、微塵も感じさせ無かった。
「木島さん依りは雪子夫人に、似ておいでですね。可愛らしい。」
ぞっとする声から其の名前を聞いた瞬間折は吐き出し、加納の軍服を汚した。あ、と八雲が云ったと同時に折は加納から殴られた。畳に投げ飛ばされた折の姿に雄一は起こそうと寄ったが、他の男に押さえ込まれた。
「折と、新に、触れるな。海軍風情が…っ」
床に押さえ込まれるのには慣れているが、足で顎を上げられたのは初めてだった。陸軍さんは一々相手の顔等見やしない。此の屈辱的な態勢。
「拷問には、慣れておいででしょう。神楽坂雄一。」
冷たい目に見下ろされ、雄一は息を吐いた。自分の人生は、此処で終わる。そう思い、息子の事を考えた。冗談で交わした井上との会話が、本当になろうとしている。初めて、恐怖した。
「我が軍神に対する非礼…ワタクシ直々に罰を与えましょう。…八雲君。」
「はい。」
機械的な笑顔に声。
「其のぶら下がる死体と此の二人を、反国罪として連行為さい。」
顎から足が離れ、雄一は畳に頭を擦り付けられた。
店中に響く悲鳴。藤波の声と雄一は判ったが、其れは厠からだった。ひゃあひゃあと、塀と塀から風が抜ける様な藤波の悲鳴は此の楼と辺りの楼に良く響いた。
「未だ何かあるのですか。」
此れ以上面倒は御免だと呆れた加納に一人の軍人が声を掛けた。小さい其の声は雄一の耳にしっかりと入り、悔しさで唇を噛み締めた。
男が縄なら女は刃物かと、喉深く刺さる刃物を見て加納は息を吐いた。ドアーに凭れる様に真去は絶命し、其れを新の死体を見た為気分悪くした藤波が開けた。豪く重いと思った矢先、首が抉れた女が腕に雪崩込み、真赤な其処に悲鳴を上げた。悲鳴と共に胃液の酸を知り、其れに混ざる血の臭い。まるで、地獄絵図を見ている気分だった。真去が白目剥く目同様に藤波も白目剥いた。ひゃあひゃあと超音波の様な声は、朝の空気に良く通った。
「父親も、息子も娘も自殺ですか。木島家は呪われている。」
面白いと云わんばかりの八雲の声。驚いたのは雄一だ。
「自殺…?」
新達の事では無い。
「木島は…自殺なのか…?」
聞かされていた死因とは違う事に雄一の足元は崩れた。やれやれ、と加納は眼鏡を上げる。
「貴方が非難していた木島さんは、米軍から御自分の命と引き換えに此の国を守ったのですよ。本郷さんに元帥を託してね。」
其の軍神を貶した罰、後で教えてやろうと加納の高笑いを聞いた。
何が正しいのか、最早雄一には判らなかった。加納に殴られた頬を腫らす折も同様だった。
「此の国は…何が正しいんだ…」
呟いた雄一に加納は笑い、ワタクシが正しいのです、朝の空気に高い声が溶けた。
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