海軍の恐ろしさ


仲間の海軍批判家の現実を知っていた筈。あいつは実際、腕を切り落とされたでは無いか。何を私は、陸軍程と考えていたのか。
海軍の独房に入れられた途端、私は頭を椅子で殴られ、倒れた処腕を折られた。其れは一瞬の出来事だった。椅子で殴られ朦朧とした処に激痛。嫌でも意識がある。其れを嗤う様に浮雲の悲鳴が耳を抜けた。何せ今迄、新に大事にされて来た浮雲。手荒い仕打ちは受けた事が無い。悲鳴の前に嫌な音を聞いた。頭を壁に叩き付けられたに違い無い。
「浮雲は、関係無い…」
折られた腕を押さえ呻いたのだが、加納に踏み付けられた。
「御自分の心配を為さったら如何です、神楽坂雄一。」
更に痛みが増し、呼吸をするのさえ辛い。
加納の妙に高い声の中、浮雲の悲鳴は続く。其れも私にとっては拷問だった。
「コイツ、男花魁だろう?」
「男を相手にしてるのか?」
横の独房から聞こえる会話に違うと私は叫びたかったが、自分の呼吸だけで精一杯だった。腕が動くなら耳を塞げる。けれど其れも出来ない。自分の頭と腕の激痛と、浮雲の悲鳴。全く、拷問だ。
「俺は…そうじゃない…女の相手しか、しない…」
悲鳴に紛れて浮雲はそう云った。在の楼で男を相手にするのは藤波だけだ。浮雲は男を知らない。暫く浮雲の悲鳴を聞いていたが聞こえ無くなった。気を失った、のでは無く、悲鳴が出せない状況になっている。此の独房が並ぶ暗い場所に、其の音は良く響いた。
「私には何をしても良い…浮雲だけは、今直ぐ出してくれ。」
床を見た侭云った。椅子で殴られた所為でか、首が動かない。だから床を見た侭だった。
「人に物を頼む時は、顔を見る事。そう、学校で教わりませんでしたか?」
首が動かない様にしたのは御前だろうと云う言葉を飲み込み、けれど加納の云う通りに頼んでも結果は同じ。首を動かせば呼吸が出来ない。だからもう、何も云わなかった。殴るだけ殴り、聴覚を消してくれたら、どれ程良いか。
大人しい私に加納は、ふむ、と息を漏らし、暇なのか頭を踏み付けた。陸軍の靴底には金属が入っているが、加納の靴底は木で出来ていた。ごつんごつんと木で踏まれる。此れで蹴られたらさぞかし痛いだろう。
「加納元帥。御始め下さい。」
加納の横に立つ丸眼鏡をした将校が手を差し出す。
「如何でしょう。私は最近妻しか殴っていませんからねぇ。腕が鈍っているかも知れませんよ、八雲君。」
手始めに、と加納は私を仰向けにし、馬乗りになった。
「んっふふ。」
鳥肌が立つ程気味の悪い声を出し、眼鏡の奥の目が光ったのを私は一瞬見た。顔に激痛が走り、口の中が一気に生暖かくなった。陸軍の憲兵のレヴェルでは無い。本当に素手で殴ったのかと聞きたい程強烈だった。
「嗚呼、駄目ですね。感覚が掴めません。妻の顔は柔らかいもので、男の顔は固いですね。手が些か痛いです。」
些か。此の強烈な痛みを私に教えておいて、一寸痛いだと。何が些かだ、私は猛烈に痛い。私が死ぬ迄に加納が感覚を取り戻りたら如何なってしまうんだろう。此れが、加納馨だ。平気で折檻で人を死なす男だ。
「私、余り腹を殴るのは好きではないのですがね。」
其れは止めて欲しかった。此の力で殴られたら内臓破裂だ。
「ですが神楽坂雄一、貴方は別です。貴方は此処で死んで頂きます。其の御積もりで。」
口から臓器が飛び出るのでは無いかと錯覚した。口から飛び出た血は、顔を殴られた時の血なのか、腹を殴られたから出た血なのか、私には判らなかった。
暫く噎せていると、あの“八雲君”が加納に聞いた。
「加納元帥。煙草を吸っても宜しいですか?」
「仕様がありませんね。一本だけですよ?」
「一口で充分です。其の後は差し上げますから。」
何て男だ、八雲君。陸軍にも云ったが、私は灰皿では無い。加納が煙草を吸わない事位、知っている。
彼は紫煙を上げ、しゃがむと私の顔に煙を吹き掛けた。
「神楽坂さん、私は今から居なくなりますが、加納元帥と仲良くして下さいね。」
仲良くも糞もあるか。
加納は彼から煙草を受け取り、咥えると彼を見た。
「では加納元帥。白虎の食事の時間ですので。」
加納は頷き、顔に灰が落ちてきた。
彼の靴音が遠ざかり、私は加納を見た。此の顔に煙草は、恐ろしい程似合う。冷たい目は私を見下ろし、そっと口を開けた。
「…つ…」
此れは熱い。押し付けられたらそうでもないが、一瞬は痛い。後からじわりと痛みが来る。床に転がる煙草に、まさかとは思ったが、矢張り其のまさかで、私の背中は床から少し浮き、其の侭煙草の上に乗せられた。
「貴方、意外と重たいですね。」
「其れは如何も…」
「体重がある人間は、折檻のしがいがあります。」
「光栄ですよ…」
「ふふ。」
もう一度胸倉を掴まれ、頭を床に叩き付けられた。




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