愛妻家の朝食


仕上げ無ければと思う程雄一は切羽詰まった。書いては書き直し、直しては書いた。なのに一枚も仕上がら無いのは何故か。
紫煙を天井に吹き掛け、唸った。
締め切りは一ヶ月後だと云うのに半分しか出来て居ない。先ず雄一には書けない。在の時加納から受けた骨折が未だ完治して居ないのだ。代筆を頼む清人は半分寝て居る。昼間は学校の為、可哀相な事に夜中迄雄一の代筆をして居る。
完全に寝てしまった清人に雄一は微笑み、煙草を消し、そっと清人を抱えた。
「あら。」
「雪子夫人…」
丁度珈琲を運んで来た雪子と廊下で出会い、寝て居る清人を見ると矢張り笑った。
「清人君は私が運んでおきますね。」
云って、其の華奢な身体で清人を受け取った。落とさないでくれと懇願する雄一に、此れでも三人育てた、と意地悪く笑った。
「軽いわね、清人君。」
「そうですか…?」
「一幸が此の歳の頃は持て無かったもの。折達は如何だったかしら…」
ふふ、と雪子は笑い、清人を部屋に運んだ。其の背中を雄一は見、肩から出る安堵し切った清人の寝顔に安堵を知った。
熱い珈琲を口に含み、人差し指で机を叩く。目を瞑った侭話を考え、原稿用紙を確認した。不器用にペンを持ち、続きを書こうとしたが矢張り書けず、インキが滲むだけだった。
ドアーを閉め忘れている事にさえ雄一は気付かず、後ろから重なった雪子の手に肩を揺らした。
「嗚呼っ」
「嗚呼っ、吃驚した…」
「其れは此方の台詞…」
互いに心臓をばくばく鳴らし、息を整えた。
自分の手に重なる細くしなやかな雪子の手。余程手入れが行き届いているのか、家事を一切しない先妻の手より奇麗であった。
「私が代筆しましょうか。」
「え…?」
「漢字とかは、良く判らないですけど、教えて下されば書けます。」
辞書を見て、と雪子は机に乗る辞書とペンを持ち鼻を鳴らした。其の姿が可愛く見え、雄一は笑いを堪え乍ら頷いた。
「私は口頭だと早いですよ、付いて行けますか?」
「…………大丈夫ですっ」
「本当ですか?」
「………はい、多分…。いえ、あ、はい…、出来ます…」
項垂れ口籠もる姿が面白く、益々雄一は笑いを堪えた。
ゆったりとしては居ないが、機敏とは無縁そうな雪子。心配したが一時間程で十枚仕上がり、日付が変わっていた。
「有難う御座居ます。続きは又明日にしましょうか。」
「そうですね、昼も出来ますし。後何枚ですか?」
「後?今確か、二百枚程書いてますので、百か百五十ですね。」
「はあ、大変ですね。」
「長編はね…。短編だと楽何だけどなぁ…。後、軍批判。」
苦笑する雄一だが、雪子は腑に落ちない顔をした。
雪子は、物書きさんは大変ね、と云った積もりで、枚数が大変と云った訳では無かった。けれど雪子の此の表情に雄一は固まった。“軍批判”に腑に落ちない顔をしたと勘違いした。
雄一の軍批判は木島和臣批判。
幾ら怒りで離婚したとは云え、良い気分はしないだろう。つい数日前迄は木島を愛していた女なのだから。
「申し訳無い…」
「え?いいえ、構いませんよ。暇ですから。」
「はい?」
「え?」
互いに全く違う事を考え、其れに謝罪し、雄一は訳が判らなくなり、深く息を吐くと頭を下げた。
「御休み為さい、雪子夫人。」
「はい、御休み為さいまし。」
身を下げた雪子から甘い花の香りがし、雄一の書斎を埋めた。




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