思想家


「又後付けて来たの、本当に暇ね。軍は…」
何時迄付いて来るつもりかと、巻こうと足を動かしたら案の定背中を押され、塀に叩き付けられた。コンクリイトの硬さが頬一杯に広がり、痛い。此れで動かされたら、大根下ろしではないか。大根になった覚えは無い。
「貴様、又本を出したな。」
唇を噛む様な声。
「離して貰えませんか。」
「質問にだけ答えろ、神楽坂っ」
耳元でそんなに怒鳴らなくとも、聞こえているというのに。嗚呼全く憲兵というのは、拷問と怒鳴る事しか能が無いのだろうか。少しは将校さんを見習ったら良い。何時も釈放してくれるのは将校だ。
「ほら貴方。御婦人達が怯えて見ておいでですよ。」
偶々其処を通り掛った女達が、何事かと見ている。やあねぇ、野蛮ねぇと口々に漏らし、気付かない此の憲兵は馬鹿だ。此れで軍に対する評価が低迷するというのに。
陸軍は、全く野蛮だ。そんなに何かを摩り下ろしたいのなら、家に帰って大根でも摩り下ろせば良い。此の憲兵に、一体何個眼鏡を破壊されたか。御前の給料よりずっと高いんだぞ。
「離し為さい。」
妙に低く艶のある声。何処かで聞いた事もあるが、随分昔な気がして誰か判らない。
繊細に香る香。
「此の手を離し為さい。」
一層香の香りが近付き、声も近くなる。
「貴様…誰だっ」
「誰に口を聞いている。陸軍の、其れも憲兵風情が。」
何と気持ちの良い女であろう。男の張り声とは真逆に、女の声は静かで低い。もう少しで、糸が繋がりそうだ。誰だったか。此の、特徴ある声。
「彼に文句があるなら私に云え。」
「だから貴様は誰だと聞いているんだ!」
思い出した。
「井上、女史…」
「井上…?」
面白い。見る見るうちに手から力が抜けてゆく。如何やら、大根にならず済んだ。
「判っただろう。消えろ。」
男の舌打ちが聞こえ、塀との抱き合いは終わった。服に着いた汚れを払い、今一度見た。
「助かりました。」
「君も馬鹿だな。」
何て、はっきりと物事を云う女だろう。又其れが、自分に似ていて、気持ちが良い。
「軍批判なら、こっそりひっそりとしろ。」
男と女の逢瀬の様に、そう、耳元で云われた。耳が熱くなるのが判る。嗚呼此れが、熟女の色だ。何と艶があり、白昼に相応しくないのだろう。
「処で神楽坂先生。」
「はい?」
女は小さな本を取り出し、寄越した。此れは。
「サイン、下さい。」
「あー、はいはい。」
だから女は助けてくれた。元軍人の女は、軍事批判が御好きな様だ。
サインをし、返すと女は満足そうに頷いた。
「今から古本屋に持って行こうと思ってね。高く売れそうだ。」
女は頁を捲りながら、視線を向けた。
「今度は。」
静かに本を閉じ、横に視線を流す。何という艶だ。比喩で女形に見えるとあるが、全く其の通りだ。此の流し目は、女形がするのと同じだ。
「海軍でもしてくれ。陸軍批判は、少し飽きた。」
ちろりと眉を上げ見る其の目。十五年前、女達がこぞって黄色い声を上げたのも、頷ける。
「海軍も、敵に回せと。」
「君なら、平気だろう。君の批判は、気持ちが良いからね。」
冗談では無い。海軍を批判してみろ。元帥直々に拷問をしてくれる。仲間が海軍批判をし、其れは酷い有様になったのを思い出す。もう少しずれていたら半身不随なると医者から云われた。其の仲間、変わらず海軍批判をしている。手が無いのに。代筆をしている書生は、何時か自分も海軍にしょっ引かれるのではないかと気が気ではない。
「海軍批判が聞きたいのなら。」
地面に落ちる眼鏡を拾った。
「こっそりひっそり逢瀬の時にでも御聞かせします。」
「ふ。何を云うか。子供に興味は無いよ。」
持っている本を振り、伸びた背筋は何か期待している様にも思えた。
残り香。
其れを肺に入れた。


陸軍を敵に回すのは怖くないが、元陸軍大佐を敵に回すのは、流石の俺も、怖いぞ。




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