愛妻家の朝食
「其れは恋です、御父様。」
「何…?」
ベッドに正座し、自分を見下ろす清人の言葉で目を覚ましてた雄一は困惑した。清人の手にある原稿用紙を見付けた雄一は飛び起き、慌てて其れを奪い取った。
其の原稿用紙の内容は勿論、今書いて居る原稿では無く、寝る前に折を叩き起こし、雪子に対する思いを書いた物だ。書かせて居る相手が相手なので、“彼女”と表記していた事に安堵した。
「馬鹿らしい…」
原稿用紙を机に投げ、其の侭眼鏡を掛けた。
朝から相手にするのが面倒で、適当に相槌を打つ。自分を蔑ろにする父親の姿に清人は頬を膨らまし、其の背中に云った。
「恋は、素晴らしいです。」
「…御前に云われなくても、判ってる。」
七歳の子供から“恋は素晴らしい”と云われた父親の心情。未熟でも困るが、早熟も中々に困る。
呆れた顔で振り向く雄一に清人はにこにこ笑い、其の顔に文句を忘れた。
「清人は、恋をしているのか?」
しゃがみ覗き込んだ雄一は、嫌です止めて下さいそんな、と合わせた両手を口元に持っていき乙女全開で身体を捩る自分の息子に気味悪さを感じた。
「…男が好きとか、そんな気味の悪い事は云わないよな…?」
云ってくれるなと、目は真剣だ。
「違います、女性です。」
同じ様に嫌悪で顔を歪める清人に安心し、椅子に座った。
「誰?」
「嫌、そんな…。嗚呼、恥ずかしいっ」
又ぐねぐねと身体を捩る息子を見る方が恥ずかしかった。そんな清人を直視出来ず、ゆっくりと視線を逸らし、偶々目に止まった煙草に手を伸ばした。
男が好きで無いのは明確だが、其のぐねぐねとした姿には不安を覚える。
「御前…おかまじゃないよな…?」
「違いますよ。」
清人は断言するが不安は残る。清人は唯でさえ中性的な顔をしている。おまけに色も白く、華奢である。性格は内向的で消極的。女と云われれば、女に見えるのだ。
其れは、幼少時代の折に似ていると、雪子も云っていた。
「逸そ御前、坊主にしてやろうか。」
其の長い髪が女に見えるんだと、雄一は鋏を持ち出し、顔に掛る前髪を鷲掴んだ。
「止めて下さいっ、嗚呼、誰かっ」
其の声さえ少女の様に聞こえる。伸ばす理由は無いが切る理由も無く伸ばしていた。意味が無いなら切る、と雄一には逆らえない清人は、せめて坊主は止めてと腹を括り、額に触れる鋏の感覚に目を瞑った。
「一寸、何してるんですかっ。物騒なっ」
何時迄経っても降りて来ない二人を心配した雪子に其の現場を見られ、雄一は赤面した。前髪を掴んだ侭の体勢で固まり、雪子にしがみ付く清人を羨ましいと素直に感じた。
「何を物騒なっ。子供に鋏を向けてっ」
「前髪を…切ろうと…」
「嫌がってるじゃないっ」
清人を後ろに隠し雄一から守ったが、雪子の声に風の様に姿を現した折に後ろ髪を無言で切られた。
行き成り髪を引かれ、ざくり、と耳元で聞こえた不気味な音に清人は叫び、其の声に雪子は振り向いた。怯えた顔で後頭部を触る清人の後ろに、今正に切り落とした清人の髪を掴む折が立っていた。何かを云う訳でも無く、鼻で笑った折は欠伸をし、無言で部屋に戻って行った。
清人は後頭部を触った侭青褪め、二人は放心した。
「嗚呼、酷い…っ」
悲痛な声を出し崩れ落ちる其の姿も女に見える。髪が短かろうが長かろうが女に見える息子の姿に雄一は複雑な思いがした。
顔を覆い酷い酷いと繰り返す清人に雪子は無性に腹が立ち、ノックもせず部屋に入った。
「一寸、一寸折っ。」
「何だよ、行き成り入って来るなよ。寝るんだよ、煩い。」
「煩いじゃないわっ、何で髪を切ったのっ。起き為さいっ馬鹿っ」
折に対して初めて暴言を発した雪子に雄一は驚き、清人も同じ思いで、互いに顔を見合わせた。
「如何して清人君の許可も無く髪を切ったのっ」
「理由は無いよ。」
「じゃあ何があるの、不満?嫌がらせ?」
「似合ってないもん。だから切った。」
「如何して貴方はそう、昔から…」
悪びれる様子も無く云う折に、昔、新の鼻にマシュマロを詰めた事を思い出した。折に悪気がある訳で無い事、嫌と云う程判っている。在の時も好奇心、今のは似合っていないから。自分の様に理性で感情を押し殺すのも問題あるが、折の様に本能の侭に行動するのも問題がある。
「常識を持って、折…」
「寝て良い?」
「良いわ、好きなだけ寝るが良いわ…」
此の息子は駄目だと雪子は諦め、良くこんな折に文句も無く新は従っていたなと感心した。
「ねえ、折…」
ドアーに身体を向けた侭雪子は聞いた。
「新が居なくて、寂しい?」
寝そべり、天井を見て居た折は身体を起こし、其の背中を見た。
「生き乍らに身体が引き裂かれてる気分。」
無意味な拷問を受けて居る時より、何倍も身体が痛い。其れが寂しいと云うのかは自分には判らないと折は寝返りを打った。
「早く出て。」
「御昼には、下りて来るのよ。」
「気が向いたらね。」
静かにドアーを締め、寄り掛かる雪子の姿に清人は近付いた。俯き、手の甲で額を叩く雪子の目は虚ろだった。何度も新の姿を思い出そうとするのに、頭に流れるのは箱に入った姿、そして灰色に舞う姿。全く新の顔が思い出せない自分に涙が滲んだ。
「雪子夫人。」
聞こえた澄んだ声に驚き、慌てて雪子は笑った。
無残に切り取られ、てんでんばらばらに髪が流れている。
「御免ね。奇麗だったのに。」
「髪なら良いです。驚いただけですから。其れより、大丈夫ですか?」
泣きたいのを堪え、反らした頭をドアーに付けた。
「眠いんですって。半日以上寝てるのに。」
「折さんじゃなくて。」
雄一に似た清人の目を直視出来ず、唇を噛んだ。逸らしては眺め、口を動かした。赤く腫れ上がり始めた雪子の目に清人は狼狽し、雄一を見た。
「後で整えてやる。先に食べて居為さい。」
手を振り、清人を遠避けた雄一は静かに前に立った。清人の姿が見えなくなった瞬間、雪子は嗚咽を漏らしドアーを伝って座り込んだ。
「新も、清人君の様に優しかったのかしら…」
「ええ、とても。少なくとも陸軍大尉の御子息よりは。」
其の言葉に鼻を啜って笑い、ドアーを向いた。数回頷き、ドアー越しに折を指す。
「救い様の無い息子。馬鹿息子よ。」
「私が叩き直しましょうか?」
「御願出来るかしら。」
涙を堪える様に大袈裟に笑う雪子に雄一は笑えなかった。細い手首を持ち、掌に“清”と云う漢字をゆっくりと書いた。
「清人は、清いに、人と書きます。」
「そうなの。」
「私は、雄に、一。清人の人は、一から来てます。」
「新と折もそうなの。一幸も。」
子供は皆、親から一字貰って居るのねと雪子は笑い、何も和臣の方から取った新が同じ様になる事は無かったのにと無言になった。
「私が何故、清人の漢字を貴女に教えたか、判りますか?」
雪子は首を振り、言葉を待った。木島とは全く異なる切れ長の目、けれど木島と同じ光があった。自分を見詰める真直ぐな、全てを見透かす強い光。
「清は、シンと、読みますよね?」
弓形に笑う其の目に涙が流れた。
「私は折を叩き直します。貴女は、新にしてやりたかった事を、清人にしてやって下さい。」
雪子は息子に愛情を与える事が出来無かった、清人は母親から愛情を与えて貰えなかった。清人が雪子に懐いたのは、強い母性の為自然と云える。同時に、折が雄一に酷く執着するのは、恋愛感情からではなく知らない父親の愛情を欲しているからに過ぎない。最近其れを、折が自覚し始めている。
「私の事は愛さなくて結構です。清人に、母親の愛情を、与えてやってくれませんか?」
此の人は、何度自分に頭を下げれば気が済むのか、床に頭を付ける雄一を見てそう思った。
「私に頭を下げては駄目と、云ったでしょう?」
だから顔を上げて、其の強い目できちんと云って。
上から降る雪子の息遣いに雄一は顔を上げ、唇に触れた。
「本当は、貴方も愛して欲しいんでしょう?」
「ええ。」
「だったら云って。」
一本糸の様に閉じられた目に伸びる細い睫毛に触れ、其の侭唇を重ねた。
支配的で、破壊的。限り無く臆病な愛情を、其の腕で守って欲しい。震える雄一の唇が離れ、片腕で抱き締めた。
「私を支えて下さい、貴女の其の愛で。」
其の言葉に答える様に雪子は抱擁し返し、其の侭キッスをした。強く重なり、ドアーの奥で物音がしたのに雪子は気付き肩に乗せて居た手を左腕に乗せた。
「先ずは、原稿からね?」
照れを隠す笑みに雄一も釣られて笑い、腕を引いて立たせた。
「もう、出て来て良いぞ。」
「最悪な目覚めだよ…」
目覚めも何も、ずっと起きて居たのだが、出るに出られなかった折は不機嫌な顔でドアーを開け、そして雄一に云った。「御父様、そう云う事は、寝室で為さって下さい」と。
睨み付け、裾を引き摺って歩く折の後ろから黒と浮島が付いて云った。一階から清人の喚き声が聞こえ、続いて折の“馬ぁ鹿馬ぁ鹿”が聞こえた。
「今日から御前は、俺の舎弟だ。俺の云う事聞けよ。」
「シャテイって、何ですか?もう既に聞いてますよ。此れ以上何を望むんですか?」
折が果たして、本当に“弟”と云う意味で云ったのか、俗語の意味で云ったのかは判らないが、此の二人が仲良くなるのは間違い無かった。
「…出来た息子だよ。」
「ええそうね。」
木島が死んでから、初めて声を出して笑った。若しかすると、木島の傍でも笑って居なかったかも知れない。心底笑った雪子は手を振り、先に階段を下りた。視線の先にある雪子の細い首筋に雄一は悪戯心が湧き出、通り過ぎ様指先で撫で、悲鳴を漏らす雪子の感度に頷いた。
「初夜は、私の腕が治る迄御預けです。」
階段に座り込む雪子は首筋を押え、一生して頂かなくて結構です、そう喚いた。
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