愛妻家の朝食
「ねえ、其れは如何してそうなるの?」
原稿用紙に向かっていた雪子は、聞かされた雄一の文に疑問を持った。
「何故苦しいの?」
「其れは…」
雄一が最も恐れていた、肉慾の描写であった。
「快楽に溺れて居るのに、何故苦しいの?」
雪子の、全く性を匂わせない顔から出た“快楽”と云う言葉に雄一は視線を逸らした。余りにも不釣り合いで、けれど異常な程官能的だった。雪子の内にある異常な雌の色気。木島が溺れ付いたのが納得出来た。
「雪子夫人は女性です。私は男。」
相反する性の衝動が同じになる訳は無いのだが、雪子には納得出来なかった。
求め合う気持は同じなのに、何故男は苦しいのか。何故女は苦しくないのか、其れ程感情が乏しいのかと聞いた。
雄一は辺りを見渡し、顔を近付け囁いた。
「女性の愛は純粋で、保守的で、とても深い。けれど男の愛は、破壊的で、残忍で、支配的。最終的には、愛する人間を壊す事を望んでる。其れが快楽に結び付いている。」
女は守る事に安堵を示すが、男は破壊する事に安堵を示す。
「何故、壊すの?」
「愛しているから。」
「愛しているのなら、守るんじゃないの?」
「其れが、男と女の、絶対的な違いです。」
此れ以上話していても埒が明かないと感じた雄一は原稿用紙を纏め、ペンの蓋を閉めてた。其れに雪子は疑問を持たず、雄一の手を引いた。
「教えて。」
真直ぐに自分を見る雪子の眼に息が詰まり、確信した。
官能的で、自己犠牲愛の強い、憎たらしい程自分を翻弄する雪子に惚れて居る。全てを必死に守って来た雄一は、全てを守られる感覚に初めて安堵を知った。なのに葛藤がある。何も知らない雪子は自分を見詰め、そして守り、雄一にも自分自身にも安堵を与える。
男の愛は、破壊的だ。なのに壊す事が出来ない。守って貰えなくなるのではないかと、怯えている。だから苦しい。頭の中では幾らでも壊す事が出来る、其れを快楽に繋げている。臆病で、陳腐な男の愛は、現実に表す事が出来ず、其れが悶え苦しむ結果になる。
女の愛は単純で、かと云って男の愛が複雑な訳でも無かった。男の愛も結局は単純で、男と女の相反する愛情が肉体の様に絡み合った時が複雑なのだ。
単純な愛が、何故こうも複雑に絡み合うのか、人間とは何と面倒な生き物かと雄一は思った。
「葛藤ですよ。」
「葛藤…?」
例えば、と雄一は雪子の唇に人差し指を置いた。ゆっくりと撫で、其の輪郭をなぞる。其の手を今度は自分の唇に持って行き、同じ様に輪郭を撫でた。
「此の行為、女性なら満足するでしょう。キッスをした様な感覚に陥る。」
「そうね、多分。」
貴方だから良く判らないけれど、そう雪子は云った。
木島が同じ事をすれば雪子は満足する、其れは判った。思い出せば、在のシーツに染み付いた木島の匂いに雪子は満足を覚えていた。会えなくとも、匂いの染み付いた其処に身体を倒すと抱き締められている感覚があった。
雄一は其の事を云っているのだろうなと、頷いた。
「けれど、私は満足しない。きちんと其の唇に自分の口を重ねたい。匂いの染み付いた洋服を抱き締めても、抱き締めた事にはならない。きちんと、全部を知りたい。けれど…」
女が其れを望まないから、自分も満足した振りをする。
「見詰めて満足な愛情は、男には要らない。男は、汚れている。女は、汚れた男を求めない。愛して居るのなら尚更、汚れた姿を見たくも無いし、見せたくも無い。女の理想通りの姿で、偽って居ても其れで女が笑って居るのなら、同じに笑う。」
本能的な愛情が現れる場面では一層。だから男は、快楽に溺れて居ても、苦しい。女には其れが無いから平気で溺れる事が出来る。
女の方が男より快楽が強いのは其の所為だろうと雄一は解釈している。
「そうなの…」
伏目で机を撫でる雪子は、切なく笑っていた。
「だから和臣さんは、何時も泣きそうな顔をしていたの…」
自分を抱く時は、何時も泣きそうな顔をしていた。何故木島がそんな顔で自分を抱くのか理解出来ず、木島が望む事を全てした。けれど泣きそうな顔は一向に消える事は無く、雪子は不安を覚えていた。
「男は…」
奇麗な細工をしてあるグラスに酒を入れ、雪子に差し出した。酒の中に浮く氷が、不安定で複雑な男と女の愛を表して居る様に揺らいでいた。
「感情の無い女には、幾らでも酷い事が出来る。」
在の海軍元帥様がそうだと笑う。
「けれど、愛する女にはとことん臆病で、とことん保守的になる。惚れた女の為に自分を守ってるんです。」
「其れが、苦しいのね…?」
雄一は頷いた。
「賢い女性で、本当に良かった。」
官能的で、理知的で、そんな雪子を壊せたらどんなに楽しいだろうか。酒を飲む雪子の姿に雄一は笑った。
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