モラトリアム


今更担当医を変えるのも億劫な話で、雄一は在の時診て貰った軍医に頼って居た。軍人では無いのに俺を使うな反国者、無駄な労働だ反国者、と軍医は悪たれる。其れでも最後迄診続けたのは医者の誇りがあるからだと雄一は思う。
解かれた包帯から表れた自分の手を眺め、動かした。
「動く。」
「当たり前です、完治したんですから。」
二度と其の面見せるなと、軍事批判を止めた雄一の肩を叩いた。
机に置かれた一冊の本。紛れも無く雄一の新刊であり、完治一発目、と軍医は本の上にペンを乗せ雄一に渡した。
二ヶ月ばかりペンを持たなかった手は震えを見せたが、軍医が望む通りのサインを流した。
「先生、私の愛読者でしたっけ?」
一度もそんな話も、感想を貰った事も無い。軍医はカルテを閉じるとニタニタと笑った。
「報酬だよ、先生の愛読者に高値で売り付けんの。」
治療費は払って居る筈だぞ、と雄一は思ったが其の治療費が丸々此の軍医に支払われる筈は無い。最後迄診て呉れた感謝と雄一は何も云わなかった。
本来なら軍人でも無く、尚且反国者の身、途中で見捨てられてもおかしく無い立場であった。其れが最後迄診て呉れたのだから有難い。世の中未だ未だ捨てた物では無かった。
「未だ批判を、続けるんですか?」
「いいえ。」
雄一に其の思いは無かった。
「私は木島を恨んで居る。今でも其れは変わりませんが、私に批判する器は無かった。所詮、粋がって居たに過ぎませんでした。」
「そうですか。」
若い軍医は木島の事を良くは知らない。内部で語り継がれる朧気な姿しか知らない。元帥は龍太郎であり、仏で、修羅と呼ばれた男では無い。
興味薄く返事した軍医に頭を下げ、診察室から出た。廊下には犬みたく敬作が待って居た。
「如何だった?」
包帯の無い手に薄々気付いた敬作だが、包帯が取れただけかと言葉を待った。目の前で手を開閉させ、其の侭親指を立てた。
「完治。」
「やったね。」
神楽坂先生の復活だと敬作は歓喜し、同じに待って居た龍太郎に視線を流した。
「御騒がせしました、元帥。」
「良いさ。」
頭を下げた敬作に続き、雄一も頭を下げた。龍太郎が在の時軍属だと海軍に通告しなければ在の侭死んで居た。命の恩人、大袈裟な言葉では無かった。
「有難う御座居ます、本郷元帥。」
片目無くした狼はゆっくりと紫煙を吐き、下がる頭に分厚い紙束を叩き付けた。
「仕事だ、神楽坂。」
「はい?」
渡された紙束にはびっしりと内部事情が書かれ、最初の一文だけで重要書類である事を敬作は知った。
「元帥っ?」
一般人にこんな内部事情を教えて良いのか、其れで無くとも雄一は文字で人の心を動かすのを仕事として居る。陸軍が崩壊されると危惧した敬作だが、龍太郎は明後日の方向。雄一に渡す理由、敬作には汲み取れず居た。雄一も又同じだった。
「仕事、ですか?何故私に。」
「御前、軍属だろう。」
在れは海軍から手を引かす為の建前では無く、本音だったのかと、二人は身体を揺らした。
子細書かれた書類を数枚捲る雄一だが、其れでも龍太郎の意図は判らない。何も云えない二人に龍太郎はたった一言、
「壊すのだろう?此の国を。」
そう吊り上がる目を向けた。
「加納の好きには、させん。」
陸軍側が血反吐吐く思いで守り抜いた此の国、漸く平和に呆け始めたと云うのに、又其れを壊される。
「本気で喧嘩を吹っ掛けて遣る、海軍にな。」
設立当初から犬猿だと聞く。大戦時も変わる事無く、仲間であるのに仲間意識は大して無かった。寧ろ敵視して居た。
「仏様は、御前等の味方だ。」
加納を此れ以上野放しには出来無い。木島以上に危険である事、龍太郎は十二分に理解して居た。
切れた頭を持つ加納に勝つには、圧力だけでは不可能。生憎陸軍側には加納に並ぶ頭を持つ人間は居ない。頭の良い奴と云うのは決まって海軍に志願する為である。
「神楽坂が、陸軍の事に詳しくて良かった。」
陸軍批判家であった雄一に龍太郎は笑う。
「期待してるぞ、先生。」
何を如何活用すれば良いのか子細一切聞かされず、雄一は立ち尽くした。
此の国の体制を壊す、雄一と敬作は其れをずっと夢見て居た。現実味を帯び始めた事に、紙束を持つ手に力が入った。




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