モラトリアム
数ヶ月掛けて代筆をして居た原稿用紙が、一冊の本として雪子の手に渡った。自分が考えた訳でも無い其れだが、喜びは言葉では表せ無かった。分厚い本を時間を掛けて一頁一頁捲り、和臣がずっと本に耽って居た理由が良く判った。偶には本じゃなく私に向いて呉れても良いじゃないと拗ねた事も一度だけでは無い。此れは中々、本に没頭する理由が判った。
雄一の文体も雪子を魅力する一つであったが、一番は、此れを書いた著者に対する愛情だった。
適当に書いたでは人は読まない、読む筈が無い。文字には著者の思いがきちんと入って居た。
雪子は其れを知り、何故今迄本を読まなかったのか、人生を無駄にして居る気がした。
雪子に並び、清人も同じに読んで居た。内容は三分の一程度しか、特に性的な事は全く理解出来無いが、清人は其れでも楽しかった。清人が読む此れは、態々出版社が漢字を把握出来無い清人の為に振り仮名を付けて製本した、言わば世界に一冊しか無い本である。
清人の部屋には雄一の本全てが揃って居る。雄一自身が持つのは当たり前だが、雪子は専ら雄一の書斎からでは無く、清人の本棚から拝借した。此の、息子の為だけの本を、雄一の愛情を一番に感じられる本を読みたかったのだ。
不満を持つのは折一人である。
夕食時に為っても一向に支度に取り掛かる気配無く、清人と並び本を読む母親の姿に空かせた腹を立てた。同じに読めば良いと思うかも知れないが、活字は大の苦手だった。絵を見るのは新の影響で苦痛では無いが、如何も活字とやらは頭痛を覚えて為らない。摩訶不思議な文字の陳列で、抑漢字が判らない。清人の本を借りるのはプライドが許さない。其処迄して読みたくは無いのだ。
切りの良い所で雪子は栞を挟み、「清人君も、何時か文豪に為るのかしら」と清人を見た。
「僕が、ですか?」
「文豪の子供って、大体が物書きに為ってるから。」
雪子の言葉に清人は本で顔を隠し、折り曲げた膝を本に付けた。
「沢山勉強して、沢山本を読めば、為れますかね…」
「文学科に入らないと駄目かしら、やっぱり。」
「目指すは明治大學です。」
八歳にして目指す大学を決める清人、ふらふら出歩き猫と遊ぶだけで一日を終わらす折とは大違いである。
「何で明治?」
「御父様が其処なので。」
「まあ。」
明治大学出身とは、中々に雄一らしい。在の自由な思想は在の大学ならではなのか、若干個性的過ぎるとは思うが。
「折の父親は、早稲田なのよ。」
「嗚呼、成程…」
「両極端よね。」
雪子はくすくす笑い、二人の違いを見た。
「木島って、早稲田何ですか?」
音無く、とは云っても本に没頭して居ただけで二人が気付いて居なかっただけで、帰宅した雄一は驚きを見せた。和臣はてっきり大学を出て居ないと考えて居た。
抑、大学を出て居なければ将校には為れないので出て居て当然なのだが、雄一には学問と軍が上手く結び付かない。龍太郎は雄一と同じく明治、拓也は慶應、在の海軍元帥様は云わずとも判るであろう。
学はある筈なのに何故だ、雄一の内為る何かが崩れた。
「御帰り為さい。手は如何でした?」
「すっかり完治しました。」
「まあ良かった。今日は御御馳走にしましょう。」
終わり掛けの本に雄一は気付き、朝一に受け取った筈なのにまさか一日を費やしたのではと、台所に向かう雪子を見た。案の定、素っ頓狂な声と共に笑い声が聞こえた。
「買い物に行くのすっかり忘れちゃった、あはは。」
「でしょうね。」
「だって面白いんですもの。」
物書きにとっては実に有難い言葉だが、今の雄一には余り有難い言葉では無い。折同様、空腹に腹を鳴らして居る。
からからと笑う雪子を、本から目を上げた清人は見、云われて見れば腹が減って居た。そう思ったら一気に空腹が襲い、盛大に腹を鳴らした。
「今日も健康だな、清人。」
「有難い限りです。」
自分に頭を下げる清人に雪子は益々笑い、二階に向かって折を呼んだ。
「せーつ。御折さん。浮雲さぁん。」
「なーに。」
「御夕食、何が良い?」
「何?今から作るのか?」
荒々しくドアーは開き、続けて階段を下りた。
「俺、昼から何も食べてないんだけどっ?」
「自分でしたら良いじゃないのよ。」
予想通り、雪子は昼さえ忘れて居た。雪子は空腹と云う物を余り覚える体質では無いらしい。此れは幼少時代から常に空腹であった為、身体が慣れてしまったから。折みたく、小腹が減った位では食べないのだ。
良く良く見れば、雪子は朝に少し食べる位で夕食迄食べない。其の夕食もかなり少なく、後は只管、寝る迄酒を飲んで居た。病的に細い理由、良く判った。
「出掛けましょうか…」
空腹で清人に八つ当たりを始めた折を宥め、雄一は云った。清人は昼に弁当を持たされて居るので折程深刻では無く、又其れが折の怒りを助長させた。
「何で御前が食べれて、俺が食べられないんだよっ」
「働かざる者食うべからずと云うではありませんか。」
「御前働いて無いだろうが。」
「僕は、学問に勤しんで居ますので、当然かと存じます。未来を背負って立つのですから。」
清人の此の物の言い方、文豪の血は確かに引き継いで居ると雪子は感心した。其れに反して折は如何だ、唯口悪く頭悪そうに喚くだけ。未来の一つ、背負っても良い齢の筈だが。折の未来を考えると、清人が将来背負って立つであろう社会より、重い不安が二人に伸し掛かった。
〔
*prev|2/10|
next#〕
T-ss