モラトリアム
覚えた不安は、果たして雄一に教えた。伸ばした腕は綿のシーツを容易く撫で、無い雪子の存在に目を開けた。眠る前迄雪子が居た場所には柔らかな日影が伸び、雪子の体温の様だった。此の差し加減からして昼前、暢気な父親とは反対に清人は学校に行って居る。息子が勉学に励んで居る中、雄一はと云うと昨晩の余韻を全身で感じて居た。
雪子が気を利かせたのか、観音開きの窓は片方だけ開き、じっとりと寝汗を掻いた首筋に風を教えた。起きるのも面倒に感じた雄一は枕に顔を埋めた。動いた寝具は雪子の甘い匂いを送り、雄一の鼻を満たした。
しっとりとした肌質、汗を滲ます細い首筋、振り乱れる髪、突き出た腰骨、長い肢体、甘い吐息を漏らす唇、胸と尻は矢張り無かった。指先や身体に雪子の熱さは生々しく残るが、此れは妄想、或いは夢では無いか。
性とは掛け離れた白昼の雪子を散々見て来たからそう思う。
くしゃくしゃに丸めた原稿用紙が入る屑籠に視線を流すと、其の上に同じ様な形をした紙、現実だった。
「起きるか。」
胡坐を掻き、煙草を咥えた侭背伸びした。
「どんな顔して会えば良いのやら。」
自嘲し、煙草を消した。
ドアーを叩く微かな音。開くと新の愛猫だった黒が挨拶をした。
「雪子夫人は?何時も通り?変わらずの淑女加減?」
「まぅ。」
「そう、なら私も、普通に行こう。」
テーブルに並んだ食事、味噌汁に白米、出し巻き卵に干物。朝と昼を一緒にする雄一の食事は、変わらず雄一を迎えた。
「御早う御座居ます。」
「御早う、父さん。」
仏頂面の折、正反対な笑顔の雪子。此れも変わらない。
「御早う御座居ます、雪子夫人。其れに折。」
「俺は序でかよ。」
座った雄一の前に熱い茶が置かれ、一口飲んだ雄一は雪子に向いた。無言で見詰め合い、暫くはそうして居たが、雄一が何かを云いたそうな口をしたので顔を近付けた。
「云いたい事があります。」
「珈琲が良かったかしら。」
云った唇に雄一は唇を重ね、箸を運んで居た折は折れる程テーブルに叩き付けた。
「愛してる。」
「折の手前ですよ…貴方。」
変わらず厳粛な態度見せる雪子だが、目元は赤らんで居た。
広げた新聞。今日も景気良く一組のカップルが心中して居た。
本当に、景気良い最期だった。
線路に飛び込み、月曜の朝一に御苦労な話だ。此の華々しい最期を迎えたカップルの所為で、ダイヤは大幅に乱れた。他人を巻き込んでの心中は余り良い物では無い。
遣るならひっそりこっそり、田舎の川にでも旅行がてら飛び込め。
そんな事思う雄一も、中々に暇人の脳天気者である。
最悪な事に此のカップル、教師と生徒の間柄だと云う。性別は勿論男女だが。
其の時だ。学校に行って居る筈の清人が帰宅した。驚いた雪子は帰宅理由を聞き、雄一は、等ゝ折の影響を受け学校に行かなく為ったと、新聞を畳んだ。
「如何したの?」
「電車が動かないんです…」
新聞に載る在の傍迷惑なカップルは、清人に迄迷惑を掛けた。
八時に為っても電車は動かない、駅員に後何れ位で動くか聞いた所一時間は掛かると云われた。学校迄一時間、不運は繋がると云うか、今日は終業式な為着いた頃には終わって居る。
なので帰宅した。
成績表は郵送して貰えば良い。とは云っても入学から今迄清人の成績は、国語は甲、其れ以外は丙と全く変わらないので見る必要は無いが。
「体育、頑張ったんですよ…」
乙位には為って居るのでは無いかと清人は云うが、乙も丙も大した変わり無いので雄一に興味は無い。雪子は興味あるが。何せ長男の一幸は甲以外取った事が無い。丙は論外、乙も無い。甲以外が並ぶ成績表とやらを楽しみにして居たのだ。
「跳び箱、飛べる様に為ったんですよ。」
「へえ、凄いな。」
「何段?」
「五段です。」
誇らしく云う清人、雄一も感心の溜息を漏らすが、雪子と特に折至っては鼻で笑った。
「五段だって。」
「五段、ねぇ。」
「飛んだ内に入るのか?」
「其れは良く判らないけど、飛べる様に為ったんだもの。凄い、んじゃないのかしら…」
其れで乙が貰えるとは楽である。
「俺、十二段迄飛べるけど。」
「十、二段…?」
五段でも恐ろしく、やっとこさ飛べる清人には魔物の高さである。
「御前、運動神経悪いんだな。」
味噌汁を飲み終えた折は、容赦無く清人を抉った。
こう見えて折、運動神経がかなり良い。実際頭も良いが、勉強が大嫌いな為テストの点数が満点に近いだけで、評価は丙である。
「側転とか、後転とか、出来る?」
「いえ…」
跳び箱五段で歓喜して居た自分が恥ずかしいと清人は思う。
雄一の躾の賜物か、食器を流しに遣った折は清人を見下げると鼻で笑い、其の侭側転で階段の所に行った。
「此れ位出来ろよ。」
「凄い…、凄いです…っ」
兄の凄さを見た清人は興奮し、運動がてんで駄目な雄一も感心を見せた。此の親子、揃って文芸以外成績が悪いのである。
運動は言わずもがな、音楽の才能も無ければ絵の才能も無い。理数はちんぷんかんぷん、歴史も興味沸かない。国語以外で秀でるのは語学力だけ。人情にも乏しいと来る。
「清人、折が兄で良かったな。」
「はいっ。体操選手みたいです。」
興奮冷め止まぬ清人に対し、珍しく照れ笑った折。階段を半分登った所で一度足を止めた。
「母さん。」
「何?」
「俺、海軍学校受かったから。何でか知らないけど。」
秋から学生、無職じゃない、と折は云うが、茶を飲んで居た雄一は吹き出した。雪子も暫く放心した。清人だけ、運動神経抜群で奇麗で其れで以って海軍学生とは何と素晴らしい兄か、賛美した。
「幾ら、大金を積んだんだ?え?」
雄一に大金動かした記憶は無い。弁護士から連絡も無い。
在れ程軍を嫌い、怠惰の化身の様な折。端から信用して居ない雄一は、大金積んだ以外に入学出来る筈が無いと喚いた。
抑何故海軍なのか、陸軍であれば見兼ねた龍太郎が如何こうしたと考えられる。一幸の階級とて、そうして与えられた位なのだから。
折は階段に座り、不思議な事を云った。
「一ヶ月位前かな。美麗と遊んでた時、海軍の野郎が来たんだ。」
在の眼鏡野郎、と折は忌ゝしそうに吐いた。然し“在の眼鏡野郎”と云われても雄一は、加納以外思い付かない。折が加納を指して居ないのは、折が加納を指す場合“能面野郎”と揶揄する為違うのは判る。誰か判らず考えて居ると、とんでもない特徴を云った。
「虎だぜ、虎。犬みたく連れて歩いてんだ。頭がおかしいのかと思った。」
「虎?そんな悪趣味な人居るの。」
雪子は当然驚いた。
「居るんだよ此れが。白い虎で、もう、無茶苦茶でかい。食われるかと思った。」
虎の存在に圧倒された事を興奮混じりに話す折だが、雄一の心は冷めて居た。
はっきりと見た訳では無いが、確かに云って居た。パイフーの食事の時間ですので、と。
豪く特徴的な言葉だった為強烈に残って居る。
中国文学に通じて居る雄一だからこそ、即座に其れが白虎、神獣と呼ばれる虎であると理解出来た。雄一は在の時愛猫か何かの名前で、猫にしては面白い名を付ける男だなと感じた。
まさか本当に、虎であるとは思わなかった。
「其の海軍の奴、斎藤、じゃないか…?」
加納の右腕、其れが折に声を掛けた。
「斎藤…んー…。丸眼鏡。」
「斎藤だよ、其れは。」
新の在の場所に加納と対で居ただろうと雄一は云うが、在の時折は、片割れが無言でぶら下がる様に放心し、周り等見えて居なかった。独房に押し込まれた後も見て居ない。
「加納以上に頭の切れる男何だ。何で…」
何の疑問も持たず、易々と斎藤の誘いに乗ったのか、雄一は苛立った。斎藤が折を海軍に誘う理由が判らなかった。
「斎藤には、近付くな。」
此れなら無職で脛を齧り続けて呉れた方がマシだった。
「待ってよ、俺が云う眼鏡野郎と、公爵が云う眼鏡野郎は違う人物かも知れないだろう?」
働けと散々云い、決めた途端駄目と云う雄一の矛盾した態度に折も苛立ちを見せ始めた。
「白い虎を連れて、眼鏡を掛けて、海軍と来れば、其れは斎藤だよ。斎藤八雲、本職は考古学者。」
「八雲…、嗚呼、八雲だ。美麗が八雲って呼んだ。」
雄一の背中に戦略が走った。
等ゝ折に迄接触を試みた海軍に、龍太郎が書類を渡した理由が判った。
食事も半端に、椅子から立ち上がると階段を登り始めた。
「清人、学校には連絡を入れて於くから。」
「はい、有難う御座居ます。」
「済まないが、今年は何処にも連れて行けそうに無い。」
例年なら清人の夏休み期間別荘に居た。前妻の散財の御蔭で楽しみ諸共失せたが、雪子の故郷辺りに新しく作るのも良いと考えて居た。
「雪子さん。」
「はい?」
「担当者は田口さん以外通さないで下さい。彼は礼儀正しい方ですので、きちんと最初に名乗ります。」
「はい。」
「食事は部屋の前に。篭ります。」
折を通り過ぎ、其の背中に清人は不安を覚えた。在の気迫は、軍事批判をする時と同じで、其の時決まって家の中は無駄な緊張感に包まれた。手伝いも物音一つ立てず仕事をし、其の度清人は母親に八つ当たりされた。家に蔓延る緊張感が母親の神経を刺激し、ヒステリーを起こすのだ。
「公爵、如何したんだよ。八雲が何?」
「其れに就いては後々話す。私は反対だ。絶対に。」
書斎の鍵を締め、机にある書き掛けの原稿用紙を封筒に入れた。代わりに龍太郎から渡された書類とノートを置いた。
―――海軍に本気で喧嘩を売る。
数日前に聞いた龍太郎の言葉は雄一の頭を埋め尽くした。
龍太郎は斎藤の接触を知ったに違いない。だから数ヶ月経った今頃、軍属等言い出した。
―――こっちは血反吐の思いをしたんだ。
嗚呼そうさ、俺達は血反吐吐く勢いで世の中を変え様として居るんだ。其れが何だ、一方では挙って心中して居るでは無いか。今朝の在のカップルは死んで当然だ、生きる気力の無い奴は死ね。邪魔にしか為らない。
「悪いが今川さん、俺はそんな物が受けない世の中にしたくてね。」
机上に並ぶ本の上に無造作に置かれた原稿用紙を握り、一瞬躊躇ったが纏めて破り捨てた。雪子が発案した其れを捨てるの忍び無いが、雄一に書く意思は無かった。未練がましく置いて於くと決心鈍りそうだった。
なのに雄一は思った。
昨日の在の夜、如何して自分は心中を決行し、ダイヤの乱れ等誰も気に止めない程の華々しい最期にしなかったのかを。
鉛筆芯の黒さがノートを埋める度、身体に染み付いて居た雪子の熱が消えて行った。
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