モラトリアム
原稿用紙を睨み付けるだけで数時間過ぎた。
食欲が無い雪子の所為で夕食は素麺か笊蕎麦で、二時間後には腹が減った。折が満足する筈も無く、こんな夕食なら食わない方がマシだと、止める雄一の言葉も聞かず円タクに乗り何処かに行って仕舞った。
夕食が終わり四時間経つが、素直に夕食に出掛ければ良かった。此れから毎日、素麺、笊蕎麦、心太の繰り返しでは無いのか、不安を覚える。
原稿用紙を睨み付けるだけに終わるのは決して空腹だからでは無い。今川の存在の所為だった。余りの腹立ちさに思考が働かず、かと云って其の不満を原稿用紙に殴り書き、鬱憤晴らす事も出来無い。今川ごときに無駄にする訳にはいかないのだ。
「神楽坂さん。」
睨み付ける原稿用紙から目を離すと、横で雪子が笑って居た。手には、握り飯と味噌汁の乗る盆を持って居た。味噌汁の匂いに気持が和らぎ、笑い返した。
「何ですか?」
「御夜食。」
「有難う。」
此れ以上睨み付けても進まない事雄一自身が良く知って居る。盆持った侭雪子はベッドに座り、雄一に伸ばした。
寝室があるのに、何故書斎に迄ベッドがあるかと云うと、寝室に行くのが面倒臭い時の為である。
伸ばされた盆の上から味噌汁を取り、一口飲んで、顔を綻ばした。
「美味しい。」
「良かった。」
味噌汁には、不思議な力がある。一口飲んだだけで、散々雄一の頭を痛め付けて居た今川への怒りが薄く為った。半分飲み終わった時には、今川自体を頭から消した。握り飯は具の無い塩握りだが、心は充分に満たされた。
盆の上を空にした雄一は頭を下げ、机には向かず雪子の横に座った。手を握り、二人揃って正面の本棚を無言で見詰めた。
雄一が煙草を咥えた時、其れを待って居たかの様に雪子の口は開いた。
「機嫌。治って、貴方。」
「え?」
マッチ粕を捨て、片目で雪子を見た。正面を向いた侭で、雄一に視線を向け様とはしなかった。
「良く判りましたね、私の機嫌が悪いの。」
「最近判る様に為ったの、貴方の事。」
今貴方が私にしたい事も―――。
本棚から目を離し、きちんと雄一を見た。けれど何も話さず、ゆっくりと瞬きを繰り返すだけであった。
握る手にぞくりと快楽が走り、無意識に口が開く。閉じる時は喉が動き、又開く。持って居る煙草は長い灰を作り、良くこんな長さで落ちもせず居られるなと感心する。煙草の短さに気付いた時は灰が縦断に落ちて居た。一口しか吸えなかった煙草を揉み消し、雪子の肩を抱くと唇を重ねた。至近距離で視線を重ね、其の侭雪子は雄一の胸に頭を寄せた。
「如何しましょう。」
「本当にね。困った。」
「私、貴方が凄く好きだわ。」
予期せぬ告白に雄一の耳は熱く為り、其の動揺ははっきりと雪子に伝わった。雄一の煩い程の鼓動は雪子の耳を揺らす。肩を掴む手は力が入り、此の薄い肩では割れて仕舞うのでは無いかとさえ思った。
「雪子、夫人…?」
「如何しましょう。」
雪子自身、雄一に惚れるとは思って居なかった。和臣を未だ愛して居るからでは無く、此の年に為って、と云う気持の方が強い。見境も無く二十近く年の離れた、然も年下の男に惚れ込んで仕舞うとは想像出来無かった。
「如何したら良いんだろう。」
顎を触るとざらりとした感触がし、髭を生やした男は幾度と無く見て来たが触れたのは実際初めてだった。元から体毛の薄い和臣の頬や顎は茹卵の様に滑らかで、其の痛い様な擽ったい様な雄一の感触を楽しんだ。
微かに甘い雪子の体臭、顎に触れる指先、眼鏡は外して居ないのに視界はぼやけた。
「雪子さん…」
名前を呼んだ舌は、痺れた。
唇を重ねると雪子の身体から力が抜け、花弁が落ちる様にベッドに横たわった。ゆったりと静かに、そう、優雅と云う言葉が似合いだった。
覆い被さって来た雄一の背中を抱き締め、息苦しさに漏らした吐息さえ甘く、雄一の鼓膜を痺れさした。
紙とインキ、煙草の匂いしかしない書斎は雪子の匂いに埋まった。書斎其の物がウツボカズラみたく為り、嗚呼そうだ、此れで良いんだと、目を閉じた。
「食べて呉れ、雪子…。私の全てを…」
「食べてあげるわ…」
壺から溢れた蜜はねっとりと雄一に絡み付き、快楽に比例する息苦しさを覚えた。こんな気持良い息苦さにずっと居られるなら、情死も考える。朝が来て仕舞えば此の感覚は失せる。其ゝ違う考えを持った侭一日を終える。生まれて初めて、此の侭死んでも良いと、雄一は思った。
「愛してる、雪子。」
「ええ私も。其れを云おうと思ってた。」
情死の大半は入水と聞く。水死体程醜い物は無いと考える雄一だが、今では其れが理解出来た。
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