ある日の黒猫楼


彼奴等が、花だ何だと云われる中で、俺は一人居る。男衆が忙し無く動き、部屋のあちこちで楽しそうな声が聞こえる。
「新さん、少し宜しいですか。」
番頭が小声で話し掛け、耳元を手で隠す。
在の客が着た時から嫌な雰囲気はあったが、こうも考え通りだと面白味が無い。
俺は溜息に似た息を吐き、首を振った。
「俺は売り物じゃない。」
「しかし…」
「文句を云うなら追い出す。そう、伝えてくれ。」
月に一度来る、高浪と云う男郎の大客の婆様。金はたらふく落としてくれるが、俺は此奴が嫌いだ。還暦を過ぎている癖に男に狂い、高浪だけでは物足りず俺に声を掛けてくる。何でも、俺は在の婆様の好みらしい。
高浪も高浪で、金はあるが美しさが無い、可哀相可哀相、と笑う。
元から醜い其の顔は、老いと不摂生で益々劣化し、浮雲に至っては“妖怪婆”と呼んでいる。
俺の顔が好きならば、浮雲でも良い筈だろうが、浮雲の事は嫌いな様だった。
「新。新。」
入口から声が聞こえ、俺は慌てた。
「円城寺様っ…」
公爵に続く大客、円城寺公爵の楓夫人。神楽坂に円城寺と云えば日本屈指の財閥だ。其れが、こんなちっぽけな楼に集まるのだから不思議で仕様が無い。
「浮雲、で御座居ますよね…」
「ええ。」
上品な笑みは一層上品さを蓄え、こんな淑女が男を買うのだから世も終わりだ。円城寺公爵は、曾孫並に年離れた楓夫人を後妻の後妻、にしたのだが、なんせ年だ。二十代の妻を満足させられ無いでいる。
可哀相なのは楓夫人だ。死に損ないの爺と嫌々結婚し、前妻の残した子供達や其の孫に「財産は一銭たりともやらない」と文句垂れられ、唯一の癒しが吉原遊び。
コートを脱ぎ、付き人に渡す楓夫人に俺は顔が引き攣り、事情を説明した。
今日は公爵が来ている。詰まり、浮雲は空いていない。普通の客なら又今度と帰す処だが、金は来る時に受け無ければ、たちまち此の楼は火の車になる。
「まあ、神楽坂公爵が?」
楓夫人は大きな目を一層大きくし、少し待っている、そう云った。しかし、楓夫人を待たす訳にはいかない。話をしてくると俺は浮雲の部屋に向かった。
「失礼します。公爵、浮雲さん。」
「開けて如何ぞ…」
浮雲の許可に襖を開け、何とも艶めかしい場面を見た。
退け反る浮雲の首に公爵が噛み付いており、眼鏡越しに合う目に怯んだ。
「御楽しみの処、大変失礼を。公爵。」
「全くだよ。」
公爵は笑い、浮雲から離れた。気怠そうに浮雲は座椅子に凭れた。
「何だよ。」
不機嫌な浮雲に目も暮れず、俺は公爵に向く。
「公爵、円城寺公爵夫人が浮雲を借りたいと。」
「円城寺、公爵夫人…?」
どの息子の夫人だろうと公爵は考え、息子では無く公爵本人の、と伝えた。すると公爵は、流していた酒を吹き出し、噎せた。
「楓、夫人…?」
「はい。」
「馬鹿っ。私は帰るよっ」
神楽坂財閥より円城寺財閥の方が財閥順位が上の様で、公爵はさっと青褪めると掛けていたコートを剥ぎ取った。
「浮雲、又来るよ。嗚呼、見送りは結構。楓夫人の為に…」
言葉詰まらせ、公爵の不自然な笑顔を見た。
「御久しゅう御座居ますわ、神楽坂公爵。」
「御無沙汰致しております…楓夫人…。今、出ますので…」
此処迄下手に出た公爵を見た事の無い俺達は顔を見合わせ、笑った。
楓夫人は口元隠しくすんと笑い、浮雲を見た。
「一目浮雲に会いたかっただけでしてよ。公爵は如何ぞ、其の侭で。御邪魔虫はあたくしですもの。」
「そんな、楓夫人。私が帰りますので。」
知らず内に公爵は正座していた。何時したのだろうと気になる。
「新。御幾ら?」
「え?」
俺は振り向き、楓夫人を見た。
「御幾らかしら。」
「何が、で御座居ましょう…」
「可愛い浮雲の一見料よ。御幾ら?」
「御待ち下さい、楓夫人っ」
公爵の切羽詰まった様な声が響き、自分が帰るから、と何度も繰り返した。
「けれどね、神楽坂公爵。浮雲の顔を御覧遊ばして。浮雲は、貴方と居たいんですわ。」
御覧遊ばせ、と云われ見たが、浮雲の顔は相変わらず無表情の仏頂面だった。楓夫人だけにしか判らない様で、指摘された浮雲は口元歪め、外方向いた。
もう一度、御幾ら、と楓夫人は聞いて来たが俺は首を振った。
「御次に、纏めて頂きますよ。」
「あら。」
云ったもの、一見料等貰う積もりは無い。見るだけは只、其れが吉原だ。
「恩に着ってよ、新。」
「御待ち下さい、楓夫人っ」
公爵は立ち上がり、楓夫人の肩を掴むと其の侭座らせた。勢いがあったのか、畳で膝を摩った様だ。
「嗚呼、失礼…」
「宜しくてよ…」
「新。御詫びに酒を、楓夫人に。」
「神楽坂公爵…?」
二人の雰囲気に浮雲は面白く無さそうに鼻を鳴らした。
「俺が、御邪魔虫か。」
「何を云ってるんだ。誰の所為でこうなってると。」
「浮雲さん、持ててるんだから、機嫌直しなよ。」
浮雲の肩を揉み、俺は涙ぐましく機嫌を取った。なのに鬱陶しいと跳ね退けられた。
楓夫人は浮雲に近付き、頬を触り、笑う。
「会いたかったわ、浮雲。」
「一ヶ月も会いに来なかった癖に。」
「嗚呼、其れは許して頂戴。最近危ないのよ、在の人。」
だから此れが最後かも知れないと楓夫人は云った。
「危ないって、円城寺公爵がですか。」
透かさず公爵が聞いた。在の円城寺財閥の長が倒れるとなれば、神楽坂財閥も少し損害が出る。
円城寺は国内一の貿易会社で、神楽坂は其の輸入品の一部を回している。神楽坂の基本産業は鋼材であるので、少しの損害、である。
楓夫人は少し顔を歪め、勧められた酒を飲んだ。
「ええ。行き成り寒くなりましたでしょう。其れで心臓の方が。」
「成程。」
「財産は鐚一文来ないのに、楓さんも良くやるよ。」
浮雲は吐き捨て、けれど楓夫人は勝ち誇った様に笑う。
「耄碌爺に乾杯。」
酒器を高く上げ、一気に流し込んだ。
「乾杯。」
公爵も同じ様に飲んだ。詳しくは知らないが、金持ちの社交会の様な乾杯の仕方であった。
楓夫人は、今楽しければ旦那が死に、無一文になろうが知らないらしい。無一文になる前に、多分何処かの金持ちと又結婚するだろう。
楓夫人とは、そんな人である。
「でしたらあたくしは此れで。」
本当に酒一杯、公爵から奢って貰い帰る積もりで居たらしい楓夫人。
「嘘だろう、楓さん。」
「何がかしら。」
「居るのかと思ってた。」
「あたくし、邪魔をする積もりは無くてよ。」
「何のです?」
「御二人のよ。」
愛らしい楓夫人の笑み。
浮雲は欲張りだ。公爵も、楓夫人も欲しい。本当に欲張りだ。
公爵は含み笑い、先程楓夫人が云った言葉を云った。
「そう…。浮雲は何でも欲しいのね。」
「駄目…?」
「いいえ、良い事よ。人間、強欲で無ければ生きてゆけ無くてよ。」
丸で、自分自身に云っている様だった。
「神楽坂公爵が宜しいのでしたら、あたくし、此処におりますわ。」
「私は構いませんよ。浮雲の我が儘は、云ったら最後ですから。」
楓夫人は嬉しそうに頬に手を当て、艶やかに笑う。
此の人は本当に、色々な笑い方を知っている。此れが、強欲に生きる人間の姿と俺は思う。
「でしたら御言葉に甘えさせて頂こうかしら…」
「ええ。私も一度、楓夫人と、個人的に御話したかった。」
「まあ、凄い口説き文句でしてね。」
「新、もっと酒と…。楓さん、食事は?」
「適当に見繕って頂けて?三人で楽しみましょうね。」
瞬間、公爵は酒を吹き出した。
「え…?」
「え?」
互いに困惑した顔を見合わせ、公爵はゆっくり視線を浮雲に向けた。
「三人、で…?」
「え…。まさか…、え?俺は、其の経験は、無い…」
「私だって無…、いや、ある。敬作と…。若かったな…、私も…」
「あるのかっ?」
二人が何の会話をしているか判った俺は一度吹き出し、笑いを堪えた。一方楓夫人は首を傾げている。
「何の話を為さって?」
「三人で楽しむとは、詰まり…」
挙動不審に公爵は手を目を動かし、理解した楓夫人は一気に顔を赤くした。
「そんなっ、違いますわっ。あたくしは純粋に御酒を…っ」
「ええ、ええ。判っております…。私は男ですので、如何せん思考が其方に…」
「あたくしはそんな…。肉体的に云った積もりは…」
「生々しい…」
紫煙と言葉を浮雲は吐き、俺は云った。
「俺は其れを、描けば良いですか?」
「止めて、新っ…」
「楓夫人が、御望みなら…。私は構いませんが。」
云っては居るが公爵、少し顔が引き攣っている。
「俺も良いよ。何事も経験だと思うし。」
「嗚呼っ、止めてっ。」
楓夫人は耳を塞ぎ、生娘の様に赤面し身を捩った。
「男二人にあたくしの肉体が弄ばれる等…」
「ん…?」
ふと公爵の表情が変わり、視線を誰も居ない処に流すと、指を動かした。
「男二人が、あたくしの肉体を…。素晴らしいっ」
「ええっ?」
「有難う御座居ますっ。其の描写、頂きますっ」
「何がですのっ?」
「新っ、原稿用紙とペンだっ。」
行き成り始まった公爵の職業病に浮雲は呆れ、結局、楓夫人は浮雲と二人で“酒”を数時間楽しんだ様だった。
俺は公爵の職業病が始まった時に部屋を出たので詳しくは知らないが、在の楓夫人の事だ。公爵が横に居る場所で本来の目的を達成させたとは思え無い。




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