ある日の黒猫楼


浮雲の部屋を出た直後、酒臭い息が不気味な笑い声と共に耳の後ろから頬に抜けた。老人特有の臭いを消す目的で付けられた香の匂い。其れに酒の臭いが混ざり、吐き気がした。
「高田様…」
俺は極力笑顔を努め、肩から垂れる両手首を掴んだ。筋と血管が浮く荒れた指に宝石が嵌まり、爪は真赤に染まっている。俺は此処迄、全てが醜く不釣り合いな老婆を見た事が無い。
騒々しく高浪と男衆が現れ、部屋に戻ろうと促されたが、駄々っ子の様に首を振り、酔っ払い妖怪は俺の腕に絡み付いた。
粉が浮いた顔は、見るに耐え難い。
此の妖怪婆こと高田と云う女は、何で儲けたかは知らないが大戦でぼろ儲けた、所謂成金である。苦労に苦労を重ね、行き成り掴んだ大金の所為で全ての感覚が歪んでしまった、高浪が云う様に可哀相な婆様である。
金の使い方も判らず、欲しかった物を買い漁り、欲望を満たし、本人は満足しているが見事な妖怪。
「ほら、部屋に、ね?」
やんわり高浪は云うが、婆様は手で威嚇し、俺から離れる気配は無い。
「高浪、寂しがってますよ。」
「あたしだって新が居なくて寂しいんだ。」
「困ったな…」
毎回、俺は売り物では無いと云うが、上手く通じ無い。妖怪と言葉を交え様と思う方が間違っているのでは無いかと、最近思い始めている。しかも今日は、最悪な事に泥酔している。何時もはほろ酔い加減千鳥足で帰ってくれる為、対処の仕方が判らない。隣の楼主に助けを求め様かとも思ったが、矢張り俺にも自尊心はある。仕方無く高浪の部屋迄高田の婆様を運び、後は頼んだ、と高浪に念を押した。
しかし、部屋を出様とした時背中を掴まれ、妖怪の力は凄まじい。床に倒れた。
「新さんっ」
「新さん、大丈夫ですかっ?」
油断していたとは云え、還暦過ぎた女の力に負けた。衝撃で暫く畳の上で涙を堪えた。
「あんた、前から思ってたけど、本当似てるね…」
上から降った声に俺は視線を向けた。其の目は、酒の所為と信じたい、涙を浮かべていた。
「高田様…?」
口から出た名前。今迄醜いだけだった顔は、子供の様に顔を歪ませ泣いた。不思議な事に、全く年を感じなくなった。
俺は起き上がり、高浪達を部屋から出すと、正面を向いた。
「高田様?」
「何で、死んだのよ…」
顔を覆い、泣く彼女に俺は如何して良いか判らず、暫く見ていた。
「あんたを見てると、思い出すんだよ…」
「木島、和臣を…」
「うん…。目が、似てる…。丸で、親子みたい。」
彼女は鼻を啜って笑い、俺は視線を落とした。
「其の人は…、恋人?」
「まさか。」
笑う。
「嗚呼、そうか。あんた、十八、だったね。木島和臣って人は、陸軍元帥だった人だよ。」
知らないよね、と彼女は笑うが、俺は何とも云え無かった。床を見た侭、うん、とは云ったが、果たして其れが彼女に聞こえているかは判らない。
「懐かしいな…、今頃思い出す何て…」
「何があったの?」
誰も教えてはくれ無かった、いや、母親でも知らないであろう父親の話。秘密と云って良いかも知れない。
「彼奴の子供を孕んだ。」
全身が心臓の様に大きく強く、脈打った。
「和臣が十五で、あたしは二十六だった。御互い当然遊びで、特に和臣は十四五だったからね。あたしも結婚してたし。」
彼女は何かを消す様に酒を飲み、指から丁寧に指輪を抜き始めた。俺は状況が飲み込めず、心臓の音を聞いていた。自分が何を聞かされているか、理解する事が出来るのかえ、疑わしかった。
「其の子供は、如何、なっ…」
息が詰まる。
「木島さんがね、嗚呼、父親がね、或る日来て、大金を目の前にあたしを下げたよ。あたしだって、通姦罪犯したのに、申し訳無いって頭下げて貰った…」
「父親って…、木島…宗一郎…?」
「嗚呼、良く知ってるね。そうだよ。気付いたらあたしも木島さんに頭下げてたよ。大金は、無かった事にする為の物だったんだけど、あたしは流した後だったから、丁重に返したよ。だって貰ったら、旦那に怪しまれるだろう?全て無かった事にして、生きて来たよ。でも。」
彼女は涙を止め、俺を見て笑った。特に似てると云う目を何度も親指で撫で、優しい其の顔に初めて彼女を美しいと思った。醜い心が醜い表情を作るに過ぎないと云う公爵の言葉が頭を過ぎった。
「最初、本物かと思ったよ。御免ね、昔の男に、重ねて。嫌がる様もね、本当似てたから。」
年齢以上にある皺を俺はゆっくりと撫で、柔らかく唇に円を描いた。肌に水気はあるのに、唇は痛い程乾燥していた。
「し…っ」
「今日だけ。今日だけです。」
唇を付けた侭囁いた。
「終わったら、もう、俺には構わないで下さい。貴女の相手は高浪です。如何しても無理なら。」
来ないで。
俺は、花と呼ばれる彼奴等を纏めるだけの存在。楼は土、俺は水。男郎達は奇麗な花。客は蝶。
あっちの蜜を吸って、こっちの蜜を吸って。
今だけは、俺が貴女の花になろう。




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