青春エスケープ


其の日の公爵は上の空で、首に這う唇は嫌に乾燥して居た。浮雲には其れが微かな痛みと不安を教えた。

――如何したのさ。
――いや、何でも無い。

そう低く呻き、身体を離すと酒を流し入れた。酒でさえ公爵の唇は潤す事は出来ず、注ぎ入れ様と伸びた浮雲の、雲の様な白さとゆったりとした流れに公爵の目が見開いた。

――済まない、帰るよ。

雲を切り裂く日影の様な公爵の動きに浮雲は徳利を一度手の上で跳ねさせ、襖を開ける背中を陰湿に睨んだ。

――公爵…っ

姿を合わせ、未だ一時間もして居ないと云うのに姿を現した公爵に、新は慌てた。何時もなら一晩は居る筈であるのに、浮雲が何か怒りを教えたのかと新は聞く。其れ程公爵の顔は険しく、険悪であった。

――済まないな、新。矢張り如何しても、帰るよ。

釈放され一週間、公爵の足も気も、一度も自宅には向いて居なかった。敬作の家、或いは執筆の為に買った家に居た。此の一週間は、憲兵に引っ付かまえられる前に書き起こして居た小説を仕上げ、編者に渡したのは今朝だった。

――矢張り、此方にいらっしゃいましたか。坊ちゃまが、昨晩から高熱を出していらっしゃるとか。先生の事です、気が散って仕舞われた事でしょう。確かに頂きました。御疲れ様に御座居ました。

握り締めた原稿料。気は息子に向いて居るのに、足は何故か自宅では無く浮雲に向いた。
しかし矢張り、父親の性であろう。会いたくは無い妻より、息子が心配で仕様が無かった。

――浮雲に謝って於いてくれ。矢張り私は、父親だったと。
――公爵っ

雲の切れ間に姿を隠す様に公爵は姿を消した。
崩れた衿を直しもせず、怒りに任せ鬱々と公爵の残した酒を飲む浮雲。其の姿に新は怒り等見せず、そっと頭に触れた。

――今日はもう、休みな。
――馬鹿謂えよ。八時だぞ、眠れるか。

誰でも良い、客を付けろと浮雲は空の徳利を畳に転がし、自身も同じ様に転がった。

――会いたかった男は、息子の所に帰っちまった。此れが夫人の所ならどれ程良いか。

夫人なら良い。公爵には所詮他人だ。しかし息子は違う。確かに公爵の血を半分持ち、確かに愛されて居る。

――辛いな、新。俺達には、味わう事の出来ない愛だな。
――止めてくれ…

転がる徳利が爪先に当たり、途方も無い虚しさを感じた。




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