御賞味下さいまし


こうして夜を二人で吟味すると云うのは何時仕方振りか雄一は考えた。前妻と最後に夜を楽しんだのは何時だったか、息子の清人が生まれて二三年の事だった様思う。未だ物事を判別出来て居ない為問題は無かった、其れに乳母も居た。二人も二十代前半と若く、遊びは沢山知って居たし、遊ぶ気力もあった。物書きとして先ず先ず、雄一の未来は夜のネオンの様に輝いて居た。
其れが如何だ、五年経った今は、物書きとしては名を知らぬ者は居ない程成功したが反国者としてのレッテルは貼られ、爵位と家は無くなり、引き換えの様に軍属と為って仕舞った。
清人が居るのが救いだった。
失った物は余りに多く、新たに手に入れた物とは釣り合いが取れない。
新しい妻の雪子、雄一が反国者として踏み出した元凶の男の妻だった女。其の息子も何の因果か、雄一の息子と為って仕舞った。
此れはまあ、致し方無いと雄一は思う。悪いのは木島であり、息子の折では無いのだから。
雪子に惚れて仕舞ったのも、雄一の甘さと落ち度であろう。
車の中から、夜の街を流す雪子の首筋を雄一は見て居た。「明るいのね」と、夜は暗い物と信じて居た雪子の言葉に雄一は笑う。
「明るいですよ。東京は、寝ると云う事を知らない街ですから。」
「そうね、確かにそうだったわ。変わらないのね。」
二十年以上も昔の事を雪子は思い出す。
初めて東京に来た時、其の明るさに度肝抜いた。人の多さに足が竦んだ。一番怖かったのは、擦れ違う群集が全く人形に見えた事だった。
「今夜は帰りますか?」
雄一の不可解な言葉に、昔と大差無い景色から目をずらした。
小首傾げ、雄一を見た。
「家にはほら…」
と息子達の影をちらつかす。強烈な光を放てば、影は一層暗く為る。
二人は強烈な光で夜を照らすが、影に潜む息子は如何するのだろうか。
「折が居るから問題は無いでしょうが。清人が心配だと貴女が仰るのでしたら、帰りましょう。」
「貴方に任せるわ。」
「任せたら、父親として居られませんね。」
二人は同時に小さく笑みを零した。
こうして夜の街を視界に入れたのは何時振りだろうか。
前夫は沢山の遊びを知る人だった。時折其れに自分を混ぜて呉れた。其れが嬉しかったが、雪子が楽しいと思った時は無かった。外で飲むより、家でゆったりして居た方が、木島にも雪子にも良かった。
外での木島は、神経を一層酷使させ、見て居て余り楽しそうでは無かった。飲むだけ飲み、家に着いた瞬間緊張を解く、だったら始めから家で飲めば酒も美味いと云う物。安くは無い金を払うが、味のしない酒。
木島は何故自分を連れたのか、曖昧である。雪子の酒好きは熟知して居る筈なのに。二人で開放的に楽しむ訳でも無い。
其れに気付いた雪子は、家で飲む事に徹底した。
「着きましたね。」
流れて居た景色が止まり、雄一は雪子を覆う様に後ろから外を見た。
「帝国ホテル…?」
「バーがあります。」
編集者と良く使う。誰も周りに関心持たず、酒を飲むのには、矢張りホテルのバーに為る。皆、其の後の事ばかり考えるから。男は如何遣って部屋に誘うか、女は如何遣って部屋に向かうか、よりスマートにより自然に……其ればかりである。他の客の会話や気配を一々気にして居る場合では無いのだ。
其れに、だ。
ホテルのバーと云うのは、大概宿泊者以外使えない。勿論雄一も、部屋はきちんと取って居る。最上階の角部屋、此処は編集者側が雄一を監禁する為常に埋まって居る。
今夜は、本来の目的で使わない事を雄一は願わずには居られない。
雄一の姿を入口で確認したフロントマンは、無言でルームキィを取り、素通りした雄一に然り気無く渡した。其の雄一の後ろに続く雪子の姿ににたりと口元を歪めたのは、女を連れたのが初めてだったから。直立不動のベルボーイも、しっかり目で追った。そうして、二人がエレベーターに姿を消した時、視線を合わせくつくつ笑った。
ホテル側とて人間である、楽しい事には矢張り笑わずには居られ無いのである。




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