御賞味下さいまし
バーから見た景色より、街はずっと上にあった。薄いカーテンの引かれた窓から雪子は街を見下ろし、其の近くにある机に雄一は身震い起こした。
如何も此の部屋に入ると強迫観念が背中を押す。今日は仕事をしなくとも良い筈なのに、頭では判って居るのに、重鎮な机は恐ろしい。カーテンの様に薄い雪子の背中より、机に目が行って仕舞う。
「済みません、頭を切り替えて来ます…」
熱い風呂にでも入り、酔いを冷まそう。
そう云う考えでバスルームに向かった雄一なのだが、雪子の顔は驚き、街の変わりに雄一を映した。
「いや、違います。一時間私に時間を下さい。仕事の強迫観念を消します。」
「飲んでて良いかしら。」
「…ええ…」
未だ飲む気で居るのか此の酒豪、どばどばとタブに湯が溜まる様を見て居た雄一だが、酒にしか見えなかった。
広い部屋で一人、雪子は言葉通り酒を飲んだ。グラスを持った侭彼方うろうろ此方うろうろ、落ち着かない。其の内足が疲れ、靴を脱いで絨毯の感触を楽しんだ。
広いベッドルーム、大きなベッドに両膝を乗せ、グラスを空にした。何回空にしたか、雪子は数えて居ないが。
「電気何処かしら。」
グラスを床に置き、如何せ枕元だろうと四つん這いに為った時、雄一の熱い手が重なった。風呂上がりの熱か、身体を渦巻く欲の熱か、雄一の手の熱さに息が漏れた。
「散策は終わりました…?」
四つん這いの侭抱き竦められ、石鹸の匂いが酒の匂いを消した。
バスローブの柔らかさ、絨毯に似て居る。
「暫くこうして居て良いですか?」
「良いけど…」
細い雪子に雄一を支えるだけの力は無かった。幾ら雄一が足を付けて居るとは云え、体重が違い過ぎる。其の内、腿が震え始め、「限界…」と雪子はベッドに倒れた。
自分の下で背中を向け丸まる雪子の姿に、「猫に似てるな」と暢気に考えた。
折も猫に似て居るが、此れは性格が似て居るだけで、動作は余り似て居ない。雪子は動作や身体付きが猫に似て居た。
こうしてちんまりと蹲る雪子を見ると、家に居る猫を彷彿させる。
「嗚呼、痺れた…」
漸く腿の痺れが取れた雪子は足を伸ばし、ベッドに皺を作る。伸ばした爪先は誘う様に艶めかしく動き、雄一は喉を動かした。タイトなスカートを履いて居る所為か、腰の線がはっきりと判り、良くもまあこんな薄く小さい腰で三人も産めた物だと感心する。
三人産んでの細さに感動は余り無い、其れよりも前、産めたのだと感じる。
「良くこんな小さい腰で産めましたね。」
然り気無く腰に触れた。スカート越しに知った手の熱に足が跳ねる。然し、無言も何だか誘って居る様で具合悪い。
「そう、ね…」
自然に雪子は身体を横にし、腰に触れた。真横には雄一の手、指先から熱気が伝わる。
「良く云われるんだけど、安産も安産だったのよね。こんなに簡単に産んで良いのかしら、って位。」
「修羅の子なのに。」
「もうね、本当あっという間に生まれたわ。すぽーんって感じ。」
「あらもう?と云う具合ですか?」
「そう、まさにそう。え?って。木島も“もう生まれたのか?”て首傾げてた。」
「清人とは大違いだ…」
清人が生まれる時、最初の陣痛から二日後に生まれた。苦しい痛いしんどい、もう嫌―――散々悪態付かれた。此の恨みなのか、清人は余り愛され無かった。私を苦しめた悪魔め、と云う所だろう。
雪子はけらけら笑い、腰を叩く。
「腰も肝臓も丈夫よ。」
「恐れ入りました。特に肝臓。」
「未だ未だ故障しないわよ。」
何の考えも無しに云った雪子だが、雄一の目が揺らいだのは見逃せ無かった。
「未だ未だ、ですか。」
「嗚呼無理よ…、もう産まないわよ…」
産めないわよ、で無い所が雪子の素直さだ。産む事は機能的に問題無いが、と雄一に知らせて仕舞った。
「作ります…?」
酒の力では無い笑みが雄一の顔を作る。雪子は笑って逃げるが果して逃げ仰せるか。ベッドが皺を作る度、雄一の心は踊った。
「冗談です。」
にんまり笑い、逃げて居た雪子の手を掴んだ。
「捕まえました。」
「捕まりました。」
遠に消えた酒の味、雄一の口から知ったのは煙草の味だった。其れも段々と薄れ、此れは本格的に危ないんじゃ無かろうかと雪子は身を捩った。
身体を重ねるのに少なからず抵抗がある。木島への思いも微かに何処かにあるが、一番の抵抗は“こんな歳にも為って未だ肉慾に溺れて良いのか”と云う羞恥。然もこんな歳の離れた男と。かなりの淫乱では無いのか。
此れが雄一と歳が近いなら考えない。素直に欲望に従う。雄一は其れ程魅力的で申し分無い。
雄一に対してへの申し訳無さもある。こんな年増で良いのだろうか、もっと若い女の方が雄一も楽しめるだろう。
逃げ始めた雪子を察知した雄一は、ベッドに付いて居た手を離し、後ろから抱擁した。不安感なベッドの上で二人して両膝立て、雪子の動きを少し封じた。
「待って、待って雄一さん…」
「五秒程でしたら。」
スカートからブラウスを出し、スリップの上に手を泳がせた。腰回りを滑る熱、小さな釦を外す指先、首筋に感じる髭の痛さと舌の柔らかい二つの異なる感覚。漏らす積もりは無いのに、雪子の薄い唇から吐息が漏れた。
「待って、ねぇ、待って…」
そうだ、風呂に入ると云えば良い。云ったが雄一は聞かず、勿体無い、そう鼓膜に教えた。
「全て知りたい。」
「駄目よ汚い、ねえ…」
「何で汚いんですか?」
「汗が…」
「物書きって知ってます?三日以上風呂に入れない事もあるんですよ。」
力でも口でも雄一には勝てない。諦め従うべきか、未だ抵抗見せるべきか、雪子の頭は回り始めた。
「あ…駄目よ…駄目……」
耳の裏を舐められた時、雪子の身体から完全に力が抜けた。何時もそうだった、木島が其れを知って居るのは至極当然なのだが、一度しか身体を重ねて居ない雄一が知るのは何故だろう。若しかすると凄く判り易いのでは無いのかと、反応する自分に羞恥し、其の羞恥が雪子を高めた。
身体に似た細い声を仕切りに漏らし、スリップの上から胸を包むと、掌の真ん中は固く膨らんで居た。
雄一は思わず笑って仕舞った。
「駄目って、良く云いますね。」
「ううん…」
「ブラウス脱がしますよ。」
「駄…」
「…目って云っても脱がします。」
雪子が一枚一枚布を取り払うのと同じに、雄一の口調も段々と緩く為り始めた。
雪子がスリップ一枚に為った時、雄一は完全に男に成り下がった。物書きとしての口調も消えた。父親としての口調も消えた。欲望だけが雄一の口を動かした。
雪子を上に乗せても余り乗せた感じがしない、清人の方が未だ重く感じる。何だか空気を抱いて居る気分で、幾ら雪子が首筋を舐め様が、繋がって居様が実感が無い。
「やっぱり、下に為って呉れるか?重いとは思うが。」
「平気。」
開けたバスローブの下を雪子は弄った。木島もそうだったが、男とは幾ら細くとも筋肉に覆われ、固い。自分とは違う作りに興奮した。
雄一の体温が高く為る度、肌から匂いは立ち込めた。
「雄一さんって、良い匂いね…」
「そうか?」
「本に抱かれてるみたい…」
本の匂いが良い匂いとは、今迄本を読まなかった割には中々に文学少女みたいな事を云う。本が好きな人間は、大抵雄一の匂いを知ると「良い匂い」と云う。本に余り興味を持たない人間からは「面白い匂いがする」と云う。此れを云ったのは折である。
公爵あんた、面白い匂いがする、と。
「本に抱かれてるみたい、か。文才あるな。俺よりイケるんじゃ無いか?」
「嫌ですよ、大先生ったら。」
「俺が書けなく為ったら代わりに書いて呉れ。」
「ふふ。」
雪子の吐息から、ワインの匂いを知った。朱肉色に肌を染め、細くもしっかりとした力で抱擁する腕を、雄一は掴んだ。
前妻の爪は凶器の様に尖って居た。清人が居るんだから危ないじゃないか、と思った事も何度かあるが、実際乳母が見て居たので考えが無駄である事に気付いた。
雪子の爪は肉から食み出るか食み出無いか、短く揃えてある。ふっと雄一は、吐息からワインが香った様に記憶を頭に流した。
そう云えば、海軍の独房で初めて会った時、雪子の爪は伸びて居た。とは云っても前妻程長くは無かったが、一般的には長かった。何時からか―――雄一の気付かぬ間に短く為って居た。
「爪…」
「爪…?」
掬い上げる様に掴まれる手に視線を流した。
「伸ばしたら如何だ?」
「何で?」
「御前の手には、長い爪が似合うと思うから。」
爪は、短いのが似合う人間も居れば、長いのが似合う人間も居る。爪の形もあるが、指が折角長いのに爪が短いと、勿体無いと感じる。反対に、不格好で短い指を持つ奴が凶器紛いに爪を伸ばしても、其れは無様だ。
雪子の手には長い爪が似合いだ。
其れを雄一が指摘すると、又、ワインの吐息を寄越した。
「水弄るから、爪が割れるのよ。だから切っちゃうの。」
「だったら、女中の一人でも付け様か。」
凶器程長く無くて良い。唯、雪子に似合いの形状の手を与えたかった。
雄一の案に雪子は手を離し、首に回した。
「御手伝いさんって、好きじゃないの。」
昔から。
「楽に為るぞ?」
「楽して倖せには為りたく無いわ。其れに。」
くるんとした目が雄一を捉え、鼻先を擦り合わせた。
「清人ちゃんには、私の手が必要よ。貴方にも。」
だから、爪は短い侭で居るし、手伝いは要らない、雪子はそう云い、力の限り雄一を抱き締めた。
「私、倖せよ。だから、此の侭で居て。」
どくんと、雪子の中で自身が反応するのが判った。肥大したは良いが、動くのが煩わしい。雪子の言葉通り、此の侭で居たかった。其れも其れで良かった。身体の快楽では無い心地好さが、背中からずっしりと沈む。
だが。
「男って、女と違って、欲を出したいんだ。」
「え?何の事?」
「いいや、何でも無い。」
雪子には自分の持つ事全てで満たして遣りたい、雪子が望むなら、何でもしたい。
「雪子。」
「何?」
「愛してるよ。」
其の言葉で全て満たせる訳では無い。判って居るが、口は勝手に動いた。
酒を飲むのが倖せ。
原稿が上がったら倖せ。
アナタが其処に居るのが、堪らない倖せ。
東京の夜は眠らない。ネオンは一層輝き、天と地が逆転する。そんな場所に雪子を連れたのは、街と同じに為りたかったから。
酒を飲み干す様に、夜を飲み干した。残ったのは空のグラス、白々しい空、飲み干した沢山の倖せの余熱だった。
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