肆
其れでは又、と女が載る車を見送った新は踵を返した。何かの足しにしてと貰った金を握り潰し、白痴みたく何処かを見て居る乞食の頭に落とした。行き成り降って来た百円札に乞食は一瞬だけ視線を動かし、しかし取る様子は無い。其処で新が思ったのは、此の女乞食には、百円札一枚より、半値以下の浮雲の方が価値がありそうだと云う事だった。
風に吹かれた百円札を新は眺め、此奴で無くとも誰かが拾うだろうと手を伸ばす事はしなかった。
「信じられない…」
背中を抜けた声に新の足は止まり、強張る顔で振り返ると、矢張り其処に居たのは真誇であった。百円札を拾う真誇に口元が引き攣り、欲しいならやると関わりたくない新は少し後退した。
「冗談じゃない。」
気の強い声を出し、百円札を突き付けた。
真黒な髪と目が新の目を奪い、乞食の姿等頭から消えた。
「拾ったら、其れは御前の物。」
「持ち主が居るなら返すよ。」
「俺は捨てたんだ。落としたんじゃない。」
「呆れた。」
煙草を咥え、如何したもんかとくしゃくしゃの百円札を広げ、社名の入る封筒の上で奇麗に伸ばした。
淡い色のフレアースカートが砂と合わさり、ブラウスのリボンが揺れる。
「良いのか?」
「何が?」
「其れ、原稿だろう?」
地面の上で砂と擦れ合う封筒の中には、雄一に並ぶ看板作家の原稿が入っている。編集者の癖にそんな事構い無しに、真誇には通るか判らない原稿より百円札の方が価値はあった。
「あたしの年収より高いんだ。」
「封筒の中身が?」
当然だろうと新は鼻で笑うが、真誇は奇麗に伸ばした百円札を突いた。
そんなに欲しいならやる、そう新は思うが、そんな大金を易々貰う馬鹿は居ない。陸海軍大将の月給は五五0円、上等兵曹や陸軍軍曹は月三十円と云う。一等芸妓が月五十五円に対し、浮雲は一晩で二十円。花里に至っては三十円だ。尤も、花里の手元に来る金額は大した額ではない。
なので其の百円札がどれ程の大金か、判らない奴は本物の馬鹿となる。
「あんた、とんでもない坊ちゃんか。道理で、何時も友禅や大島で、若旦那みたいな格好してる訳だ。」
呆れた呆れたと、真誇は立ち上がると乞食の足元にある缶に詰め込んだ。其処で漸く乞食は反応し、垢に塗れる顔を真誇に向け頭を下げた。
「ゴミなら、ゴミ箱に。」
何時迄も頭を下げる乞食に真誇は、ゴミだらけの缶を見た。
「御弁当、置いておくね。肉団子好きだったでしょう?沢山入れたよ。じゃあね。」
「有難うね、真誇ちゃん。」
還暦は過ぎて居るであろう乞食は、顔面をくしゃくしゃにし、純粋な笑顔で手を振った。
編集者は色々な人間と繋がって居ると聞くが、まさか乞食と迄繋がって居るとは考え付かなかった新は唖然とし、第一、在の乞食に話し掛ける声色と新に対する声色は、全く正反対であった。俺は乞食以下か、と新は唖然とした。
「ねえ。」
「ん?」
方向が同じなのか、二人の足は同じに向く。暫く歩いた所で真誇は口を開き、新の袂を引いた。
「今、暇?」
「今、何時?」
もう直ぐ三時、と洒落た腕時計を新に見せた。
「三時、か。」
「予定あるなら、良いけど。」
「予定は毎日あるさ。六時に店を開けなきゃならない。」
「店?」
最初は真誇、新を呉服屋の若旦那と考え、其れにしては随分と時間が遅い。飲み屋か何かかと真誇は考え直し、付いて行きたいと云った。しかし新は、顔を険しくすると真誇にきちんと身体を向けた。
「わっちが居る場所は女の地獄。おめぇさんが来る様な場所じゃねえよ。」
腕を組み、自分を見下ろす新の目は、ココア女だ何だと文句垂れて居る男の目では無かった。
「女の、地獄…?」
「大門の其の奥。俗から離れた、地獄さ。じゃあな。」
関わるなと云わんばかりに離れた新の身体、指先に触れた袂が、真誇に地獄を教えた。
「ねえ…っ」
地獄に扉に触れるのか、真誇の手は新に伸びた。
「あんた、名前は…?」
「…新。新しい、って書くよ。」
ふっと笑う顔は一瞬前とは違い、少年の面影を残して居た。
「御前は、ココア女だろう?」
「違うっ、真誇だよっ。誇り高き真実だよっ」
「へいへい。又なぁ、ココア女。飲み過ぎて太るなよ。」
「真誇だってばっ」
誇り高き真実、其れが誠の地獄とは、未だ気付いて居ない。
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