伍
「春、何だねえ。」
珈琲の匂いに息を吐き、丸で其れが桜の香りである様に新は呟いた。珈琲カップに布巾を掛けて居たマスターは丸眼鏡から視線を少し遣り、ふっと笑うとソーサーの上に置いた。又新たにカップを取り、意味も無く拭いた。
緊縛絵師である簾佐野恭一、彼の描いた、桜である。彼には不思議な癖がある。主流である緊縛絵にはきちんとした色彩がある。女の肌の色、頬の高揚加減、縄の結び目、其れ等全てに色彩はあるのだが、たったの二枚、色彩の無い絵がある。
一つは、彼の唯一の肖像画。そしてもう一つは、此の桜の植物画である。
地中から太い幹を真直ぐ一本、細く伸びる枝。女の身体みたく其の桜には艶があり、性がある。筆の使い方は、丸で女の呼吸の様に繊細で、長時間凝視して居ると、桜の木が呼吸して居る様見える。散る花弁は蜜みたく緩やかに飛び、本当に、女に見える。
彼の絵には、必ず植物が描いてある。女の性と植物の性が縄の様に絡み合い、秘め事を覗き見た時の様に見る者の息を止める。其の何とも云えない不思議な感覚の所為で彼は、緊縛に興味の無い人間からも天才と呼ばれて居た。マスターはそんな彼を“才能の無駄遣い”とからかって居た。
植物画だけ描いて居れば、彼は世界に通用したと。
けれど彼は決まって、緊縛で無ければ意味は無い、と笑って居た。
「ねえマスター。此の桜って。」
「パトロン様の庭に咲いて居た桜だよ。」
彼のパトロンが愛した女と、桜の木。だから、此の桜には生々しい艶があり、快楽に萌える女の姿に見える。
「恭一が。」
カップを拭く事に飽きたのか、マスターは煙草に火を付けると、其の桜を眺めた。桜の大輪に掛かる紫煙は、桜が揺れ動いて見えた。
「一番最初、世間に自分の絵を見せた時の、其の絵の落札価格、知りたいか?」
マスターは笑う。新は誘われる様に身を乗り出し、同じ様に紫煙を吐いた。何故か其れは、桜の揺れには見えない。
「豪邸が買える。たった一枚でだ。無名の、唯其のパトロンがパトロンであると云う理由で、其の才能が本物だと、世間は認めた。」
「豪邸って。」
マスターの口から出た金額に、新は息を止めた。呼吸が上手く出来無い程、其の金額に驚愕した。
「恭一は、其の時の事を、死ぬ迄忘れる事は無いだろうって、云ってた。」
額に入った自分の絵、其れに掛かる布が剥ぎ取られた瞬間の、在の溜息と人間達の視線の動き、如何やって忘れられるか、そう彼は云った。十三才の彼の絵は、倍は生きる人間達を簡単に動かした。
「其の絵って、今もあるのかな。」
「さあ、無いだろうな。在のパトロンに人物は判って居ても、恭一には知らないからな。在のパトロンと同じく貴族ではあろうが、恭一は生憎人間を覚えるのが弱くてな。おまけに大戦があったからな。恭一死後尚、其の貴族が持って居たとしても、紛失だろう。」
「マスター、見た事ある…?」
「ある訳無いだろう。俺が恭一と会ったのは、在のパトロンが死んで、何年か後だぞ。パトロンが死んだのは、恭一が、うーん。」
記憶が曖昧だ、とマスターは額を摩り、煙草を消した。抑彼の年齢さえ正確には知らないとマスターは顔を顰める。
「恭一は、全く年を取らなかったからな。見た目はもう、御前と変わらん位だった。死ぬ迄な。俺は普通に老いたのに。」
屹度化け物だ、とマスターは少し背筋を伸ばし入口を見た。ドアーに掛かる暖簾が少し揺れ、続けて豪快にカウベルが鳴った。がっしゃんがっしゃんと硝子は鳴り、騒々しい事此の上無いが、其れ以上に騒々しい声が店内に響いた。ムードが一気に崩壊し、現れた姿に獣みたく唸った。
「又御前か…」
「やだ、又あんた?暇人ねえ。少しは働けば?」
「働いてるよっ、毎日毎日っ。なのに金はちっとも貯まらんよっ」
「ココアね。」
「聞けよっ」
マスターにはきちんと、笑顔で今日はと挨拶した真誇だが、新には嫌味を放ち、持って居た封筒を荒くテーブルに投げ捨てた。嗚呼疲れた疲れたと連呼し、座るや否や煙草を咥えた。そして行き成り無言となり、数回紫煙を吐くと顔をカウンターに向けた。
「おお、春だねえ。もう春か。」
見慣れた肖像画が飾ってある其処には桜があり、見た真誇は煙草を咥えた侭カウンターテーブルに手を付き、身を乗り出した。
「嗚呼、凄いね。今年も凄いね。いや、見事だね。」
「毎年同じ事しか云わないな。」
「同じ絵だからね。同じ事しか云わないさ。」
其の言葉に新は呆れ、首を振った。芸術が何かも判らん哀れ極まり無いココア女め、そう新は真誇のカウンターテーブルから桜の枝みたく曲線を描き突き出る尻を叩いた。
同じ絵。
確かに此の桜は絵である。何十年も昔から同じ姿をし、成長する事等無いが、毎年全く同じと云う訳では無い。其れは見る者の心情、感情、成長に依って、桜は全く違って見える。下手すれば毎日違う。其れなのに真誇は、全く同じだから全く同じ感想、と曲がりなりにも編者であるのに貧しい心しか持ち合わせて居ない。此奴は全く成長をしない人間なのでは無いか、と新は真誇を哀れんだ。
「一寸…、あたしさっき転んで、尻餅付いた訳。痛いの。」
「転んだ?」
益々哀れに思う。
「行き成り猫が飛び出して来た訳。んで、慌てて避けたら倒れた。」
散々作家の所を歩き周り、疲れた果てて居た所に猫が飛び出して来た。普段なら踏ん張れた筈だが、足元に力が入らず転んだ。疲労でぼろぼろの足は更に追い撃ちを掛けられ、尻も痛い。
カウンターから離れた真誇はソファに座り、擦り剥いた足を摩った。
脱ぎ捨てられた靴から出た足は赤く、疲労を新に教えた。
「今何時。」
精根尽き果てた情けない声色で真誇は腕時計を見、後一時間、そう云った。
「終業迄?」
「いや?今から、もう一人先生の所行って、社に戻る迄。一時間で戻れる訳?」
絶対に無理だと、真誇はテーブルに頭を打ち付けた。
「嗚呼、社に電話しなきゃ…」
額に当たった封筒に思い出した真誇は溜息を吐き、目元に濃い疲労を蓄えた。
何時も騒々しく、苦労等知らなさそうな真誇から見えた疲労感は、新の心を少し揺らした。
時間が無いと、急かした覚えは無いのだが、何時もより早く置かれたココアを一口飲んだ。
「有難う…」
「何時も以上に、甘くしておいた。」
頭に糖分を回せ、とマスターは真誇を労う。封筒の中身を確認し、電話で伝える事を整理して居た真誇はふっと手を止めた。
「何…?」
「足、パンパン。又縺れて躓くよ。」
痺れを覚え始める程疲労した足に、新の暖かい手が触れた。強弱付け動く手に真誇の手は完全に止まり、溜息を吐いた。
「痛い…」
「だろうね、こんな状態で歩ける筈が無い。」
「嗚呼、気持良い…」
テーブルに顔を付け、新の手に吐息を漏らした。そんな二人をマスターは紫煙吐き眺めた。
「真誇、電話は良いのか?」
「もう一寸だけ…」
「後、四十分だが。」
「…意地悪…」
離れた真誇の足。感触の残る其の手を新は見詰め、数回開閉させた。
しっとりと、手に馴染む肌。他の女とは違って居た。
手短に電話を済ませ、少し温くなったココアを一気に飲み干した真誇は封筒を纏め、靴をきちんと履いた。本当に忙しいんだなと、代金を支払う真誇の、インキが滲む指先を見詰めた。
「帰りに又寄る。サンドウィッチ作ってて。」
「はいはい。」
呆れ乍もマスターは頷き、笑顔を見せた。釣銭の乗る真誇の手。マスターの手が離れるのと同時に新の手が乗った。握らされた何かに真誇は新を眺め、は?、と云った。
「車を使って。先生の御宅が何処かは知らないけど、一時間以内は無理だよ。」
ゆっくりと開いた掌に乗る金に、真誇は悲鳴に似た声を漏らした。
「あんた、何時も大金持ち歩いてるのか…?刺されるよ…?」
「今日は画材を買おうと思ってた。でも良い。」
「良い訳あるか、何考えてんだ…」
貰う義理は無いと真誇は云い、新も何故真誇に金を渡したのか理解出来無かった。唯、何時も笑って居る真誇が、今日は笑って居なかった。其の理由は疲れたて居るからだと新は思い、少しでも楽にしてやりたいと感じた。
理由は、判らない。
「いって、らっしゃい…」
離れた新の手に真誇は複雑な思いを抱き、マスターの咳払いにはっとした。
「絶対返すっ。……来年辺り。」
「良いよ、要らないから。」
来年とは、随分と長い。
新は笑い、掛けて行く真誇の背中を見た。そして見た墨の桜は、信じられない程色付き、艶めかしく萌えて居た。
其処で新は、真誇に対する感情に漸く気付いた。
新しく生命が萌える様に、真誇への思いが、萌えた。
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