世間の桜が開花を始め、見事な桜並木を新に教えた頃にはもう、在の桜の絵は一年の眠りに付いた。本物の桜がある時に飾っても風情が無いと云うのが男の持論だが、実際は、此の桜が、毎年他の桜よりかなり早く咲くと描いた本人が云って居た為だ。
風呂敷に包み終わった男は一旦奥に引っ込み、肖像画を元に戻した。
「ねえ、此れって、何時のなの?」
新の目の前に立つ男、其の後ろに肖像画は掛かり、新は交互に見た。
「云ったら俺の年が知れる。」
「過去も謎だしね。」
簾佐野恭一の事は教えて呉れるのに自分の事は何も教えて呉れない、と新は不貞腐れ、湯気に隠れる男の顔を眺めた。
「御前は俺の事には興味無いだろう。云っても無駄だ。」
「結構あるよ…?」
然し彼は一瞥向けるだけで、話しはしなかった。
興味が無い訳では無い。在の絵師のパトロンをする等、並大抵の人物では無い。出会った経由も関係上も、新には興味あった。尤も其れは、簾佐野恭一に関係して居るからであって、男本人に向いて居る話では無い。
「金持なのは間違い無いよね?」
「金は無いさ。大戦迄無職だった。此処は、大戦が終わった後、如何にかして生きなきゃ為らんかったから開いたに過ぎん。良く持ってると思う。」
「え…」
では何故、パトロンに成れたのか。パトロンと云うのは全く嘘で、実は兄弟…、そんな話を期待したが正真正銘赤の他人であった。
「マスターに、凄く興味が沸いて来た…」
「深“入り”は、珈琲だけに、して於け。」
置かれたカップから登り立つ芳香に新は目を瞑り、腰を椅子に戻した。一口飲んだのを確認した男は、一度咳払いをすると静かに奥に消えた。二階に続く階段を上る音を新は聞き、すると「店を閉めて呉れ」、そう二階から声が来た。
時刻は四時前。此の店は気紛れに開け閉めする。云われた通り、全てのカーテンを閉め、看板を中に仕舞い、外のプレヰトを“閉店”に反した。電気を消しても未だ明るいが、閉店の雰囲気は充分にあった。
「恭一が描いた肖像画は。」
奥から行き成り聞こえた声に新は振り向き、目に飛び込んだ絵に息が詰まった。
「もう一枚存在する。」
男の上半身をすっぽりと覆い隠す、壁に掛かる肖像画より大きな絵が其処にはあった。
緊縛絵と同じく、其れには色が付いて居た。描かれる人物は男とは、在の肖像画を見て居たので判ったが、雰囲気が全く違って居た。
在の肖像画は、何処か一点、虚ろな目で、春霞の様な雰囲気で其の人物の色気を出して居る。
そして此の肖像画。
白い軍服を着、今より若干だが濃さを見せる白髪を三つ編みに結い、垂らして居る。絵師を睨み付ける目は冷たく、冬の朝一の空気の様であった。片眼鏡の奥から、氷柱みたく真っ直ぐ一直線に、見る者を貫く眼光。
新は此の眼光に、懐かしさを覚えて為らなかった。頭の奥深くを締め付ける記憶、揺り篭に寝る自分を見下ろすの冷たい目。
無の様な、何の感情も写し出さ無い黒い空洞。
其の肖像画に圧巻された新は瞬きも呼吸も忘れ、ごとん、と額が床に置かれた音に漸く瞬きをした。
「深入りはするなと、云ってはみたが、新はしつこそうだから。」
誰かに似て―――。
カウンターから出た男は「よいこらせ」と肖像画をテーブルに乗せ、窓に立て掛けた。
絵と全く同じ眼光を貰った新は渇いた口を潤す様に何度も喉を動かしたが乾く一方だった。
「此れを見て判ると思うが、俺は陸軍元帥だったんだよ、今では陸軍の亡霊扱いだがな。」
見せられた肖像画以上の衝撃を受け、思考が上手く繋がら無かった。行き成りそんな事実を、珈琲を出す様に云われ、平常で居られる人間等そう居ないであろう。
「此の絵が、恭一最後の絵だ…」
下唇を噛み、絵の前に男は項垂れた。
「此の絵さえ…描かなければ…」
俺の失脚も、恭一が死ぬ事も無かったのに―――。
無くした栄光に縋り付く様に男は額を撫でた。
「無職、と云ったよな。大戦迄。」
「うん…」
「居たんだ、独房に、俺は。禁固二十年、罪状は。」
肉厚な唇から漏れる男の言葉に、新は桜が散るのを見た。
膨大な権力に甘んじた、浅はかさ。自分を罰する人間は居ないと驕り高ぶった結果。
モルヒネの不正使用、及び、幼児に対する性的行為。
信じた、自分を罰する人間は居ないと。事実そうだった、高らかと笑い、自分の変わりに登壇した男が現れる迄は。
「俺は、養子先の継母から、関係を強要されてた。」
項垂れて居た男の頭は、花が萎れるのと同じに段々下がり、終には腕をテーブルに乗せた侭床に座り込んだ。過去に縋り付くのか、指先はしっかり絵に触れて居た。
「判ってた…、駄目な事位…。でも…」
「マスター。」
「恭一にはモルヒネが必要だった、俺には、母親を黙殺する子供が必要だった。」
自分と恭一が出会ったのは半世紀近く前、自分が将校に為った頃。新同様、恭一の絵に惹かれたのが始まりだった。
幼少時代の性の乱れに依り男は、成熟した女が一切駄目な大人に為った。内為る欲望に気付かず、初めて恭一の絵を見た時、己の世界の天と地が逆さに為るのを知った。どす黒い欲望が頭を擡げ始め、恭一の手に触れたのが、破滅への一歩だった。

――パトロンねぇ、居ないんだ。俺に世界を教えて呉れた井上卿は、あ…井上卿って云う貴族…日本では華族かな、何だけど、死んだんだ。三年位前かな。
――そうか。
――井上卿が、全てだった。無くした、描けなく為った。だから、モルヒネしてる。じゃないと、在の井上卿の狂気は表現出来無い。

俺は確かに天才、だけど其れは、描く世界を見せて呉れた彼が居たからに過ぎない。

――だったら。
――ん?
――俺が一緒に居て遣る。
――…有難う。

恭一のパトロンが何れ程其の世界で権力を持って居たかは判らない、然し確かに、パトロン死後でも恭一が絵師として存在する所を見ると、地盤は相当頑丈に作られて居たのだろう。
此の男には、何が何でも其の世界を自分に見せて呉れないといけない―――。
「軍に何か、興味無かった。権力が、権力が、欲しかった…。絶対に、絶対に崩れない城が。」
其の為だけに男は野心を剥き出し、恭一と出会い十年余りで、陸軍大将の地位に迄上り詰めた。
此の頃は容易かった、上層部の機嫌を窺いへいこらし、外国との大きな戦争も無く、内戦を一寸止めれば階級は上がって行った。面白い様に。
「嬉しかったなぁ、此の軍服着た時は…」
額に嵌まる自分を見上げ、男は吐いた。
「世界は、俺と恭一の物だった。」
在の男が現れる迄は―――。
記憶を懐かしんで居た男の声は一変し、血を吐く様に低く、低く呻いた。
胸が、痛い。男の時系列が正しければ、今居る本郷はぴったり当て嵌まる。
落城させたのは他でも無い、自分の…、木島和臣だった。
御前は似てる、其れは他為らない、父親だった。
男の言葉を思い出した新は唇を噛み締め、男の恨みを聞いた。
「木島…木島…、木島が、憎い…」
「マスター…」
「始めから木島は、閣下の犬だった…。犬みたく尾を振って…。俺を主人と云い乍ら、本当は閣下が主人で、俺の尾を掴む為に放たれた狼…。全て教えて遣ったのにっ、全て仇で返され、手を噛まれたっ」
「マスター、マスターもう…良い…」
「最後迄、聞け…」
深入りしたのは、今も昔も御前だろう、木島。
小さな肖像画の様で居て、此の肖像画の様な目を男は新に向けた。
「嗚呼、そうさ。俺が木島に、陸軍頂点の独裁国家を作る様云ったんだ。」
唯此れは、男の権力をより強固にする為の手段だったのだが、木島はそうは行かなかった。
木島宗一郎(主人)から木島(狼)への命令は、不正疑惑のある在の元帥の尻尾を掴め。報酬は、陸軍元帥の地位。
陸軍を確固たる存在にする為、軍にそう対して興味無い息子を送り込んだ。
外務大臣だった為嫌でも外国の武力を知る木島宗一郎は、此の侭外国から攻められたら一発で崩壊すると危惧した。其の為には反戦を称え、武力を強くする必要があった。
木島は素直に頷いた。興味無い話だったが、前々から「陸軍元帥って奇麗だよね」とは云って居た。奇麗な物には木島、昔から弱かった。
然し、木島宗一郎にも誤算があった。息子の思想が、自分とは正反対だと云う事を、知らなかった。
木島宗一郎の懸念は、軍の弱さ。
男の懸念は、外国の威勢。
此の点は同じだった、そして同じ事を云った。

日本は島国だ。
今でこそ日本は一つだが、昔は藩で国が分かれ、まるで欧州みたいな状態だった。あっちで戦争、こっちで戦争。
日本と云う一つの国に為ったは良いが、敵は消えれば又現れる。
今度はそう、本当に外から来る。海の向こうからな。
軍は弱い、権威も無い、そんな状態で外国から喧嘩仕掛けられたら日本は如何為る?
阿鼻叫喚の崩壊だ。
其の為には武力を強くし、国を統一し、先導する存在が居ないといけない。
判るか?
軍が、一番偉いと、国民に教えないといけない。そうし無ければ、好き勝手に国民は動く。

「故に、軍事国家で無ければ為らない。」
二人の野心家の野心が、猛獣の野心を突いた。シャボン玉を割る様に一瞬で、木島の野心は破裂した。

なあんだ、詰まり、敵に狙われない為には、自分が強いって顕示すれば良いんじゃん…

果たして猛獣は牙を向いた。
主人達に。
先にも云った様に木島は奇麗な物が大好きである。当然、木島宗一郎からの命令“不正疑惑”を木島は知る。
簾佐野恭一と云う絵師がモルヒネを乱用して居る、其れを渡す人間に陸軍元帥と疑惑がある、和臣、御前には、其の絵師と元帥の関係を突き止めろ。
云って見せられた恭一の絵の繊細で官能的な事か。元から絵に対して目覚めて居ないだけで才能があったのか、唯単に美しさに感銘を受けたのか、兎に角木島は一見しただけで恭一の筆の動きを記憶して仕舞った。
恭一は人間嫌いで有名である、日がな一日家に篭り、滅多な事で無ければ家から出ない。絵を売る時は、男が纏めて即売した。
其の変わり者が、男の肖像画を二枚も描いて居たのだ。其れも、軍服姿と普段の姿を。
偶然にも見付けて仕舞った木島はほくそ笑んだ。
此れが決定打と為り、男は恭一諸共失墜した。
今自分が見て居る世界が創造される様を聞いた新は言葉が出ず、頻りに咽を動かした。其れに気付いた男は床から立ち上がり、自分が飲む為作り置きして居る珈琲をカップに注いだ。
「モルヒネの不正譲渡なら禁固だけで済んだだろうが、俺には、閣下の怒りを一番に買った罪があった。」
「子供…?」
「嗚呼。」
白いカップに汚れは見当たらず、純粋が故に破滅した、と吐き捨てた木島宗一郎の掠れた声を思い出した。

大人の欲望で、子供を壊した罪は重い。御前が一番知って居た事だろう、だからそんな大人に為った。
いいや、御前も子供だったんだな。
無邪気は時に残酷だ、御前はそんな子供。
子供の侭で居れば良かったもの、一番しては為らん、大人の権力を振り翳した。子供達の人生を壊した罪は重い。

振り落とされた鉄槌。涙しか出無かった。
「極刑だ、信じられるか?俺がされた事をしただけなのに…、何で俺だけが極刑なんだ…、何で、何で…」
行き場の無い気持が口から吹き出た。頭を抱え、咆哮する男を新は直視出来ず、真っ直ぐ自分を睨み付ける画を見た。
「何で殺して呉れなかったっ、何で生かしたっ、なあ木島っ」
そうなのだ。
木島宗一郎が男に下したのは極刑、其れを禁固にしたのは木島である。
何故だろう。
新は考えた。
在の父親の考えは、何なのか。
「自分一人じゃ何も出来ん癖に、俺を追放したっ。俺の犬で居れば良かったんだっ」
床を叩く男の姿に、線が繋がった。
野心、独裁国家、其の始まり…。
膳立てした男、追放された男、そうして、自分の力では何一つ出来無い癖に君臨した男。邪魔をする人間は例え陛下でも許さない、利用出来る物は例え肉親でも利用する―――陛下でさえも。

――父は殺せと仰った。
然し乍ら陛下、私には未だ力が御座居ません。
彼の罪が許せる事とは思いません、思いませんが、陛下…。私には、私と此の国には、彼が必要なのです。
陛下、陛下何卒、私の我が儘を受けては下さいませんか。
――木島さん…
――彼の極刑を、禁固にしては下さいませんか…………。

全ては、自分が万歳される為に。
己の身体に流れる血に、新は吐き気しか覚えなかった。此れは全く、自分の人生は父親と同じでは無いか。
私欲の為に金持女を利用する、何が違うって云うんだ…。
「マ…」
「独裁国家にするには俺の考えが必要だった。俺が死んだら道が判らない…、だから生かした。利用するだけ利用し、木島…、御前が俺にした事はなんだ…。裏切りと、軽蔑じゃないか…」
男が木島を恨むのは、築き上げた全てが崩壊した事でも、追放された事でも、恭一が死んだ事でも利用された事でも無い。
自分の考えを形にしたに過ぎない癖に、虚像の王として君臨した事を恨んで居た。
「力が無い癖に吠えるな…。俺は、こんな日本にする為に亡霊に為ったんじゃない…」
木島が死んで一番嬉しかったのは、此の俺だろうな。
鼻で笑い、新を見上げた。




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