仂
「ええ?ヤダ一寸、締まってんの…?」
マスターの目に怯えて居た俺は、ドアーをがしゃがしゃ鳴らす音に瞬きをした。
「マスター、ねえマスターぁ。」
何て暢気な女か、俺は其れ所では無いのに。然し、此の気不味さを打ち砕くには充分だった。
マスターは苦笑した侭画を伏せ、何時もと同じ在の遣る気無い顔でドアーに寄った。
「閉店って見えないか?」
硝子窓をこつこつ叩き、硝子越しに視線を合わせた。
「御願いよ、開けて頂戴よ。」
「ココアなら他にあるだろう。俺、疲れてるんだ。」
云って俺を横目で見た。
「違うの、いや違わないけどっ、あたしっ、トイレ行きたいのよっ」
脂汗が額に滲むのがはっきり想像出来る程、彼女の声は切羽詰まって居た。
ゆっくり開いたドアー、透かさず隙間に手が伸び、有難う、と云う声と共に鞄が床に捨てられた。トイレのドアーが閉まる音、ばらばらと靴が鳴る。そして盛大に声が聞こえ、ガラガラとペーパーを引き出す音が響いた。
何と生々しい音か。
いや、生きて居るのだから排泄は当たり前の行為だが、こうも聞かせ付けられると言葉を無くす。見せ付けられて居る気分だ。あんな女の排泄光景に興味は無い。未だ犬の排泄光景を見た方が良い。
「いやぁ、危うく漏らす所だった。」
「漏らせば良かったのに。」
ココアの恨みである。
俺が居る事に気付いた彼女は床から鞄を拾い、煙草と財布を出した。中から一枚、徐に出すと俺に渡した。
「何、此れ。」
百円札だった。
彼女に金を貸して居た事すっからかんに忘れて居た俺は、在の不愉快な音を聞かせた事への慰謝料かと勘違いした。思い出したが要らないと突っ撥ねた。当然彼女は呆れ果て、紫煙を吐いた。
「マスター、何で此奴はこんなに金に無頓着何だ。」
「金の有り難みが判らないガキ何だな。要らないなら俺に呉れ。」
「良いよ、あげる、マスター。」
メモを渡す様に金を渡したが、案の定、マスターの手には行かずきっちり財布に戻った。
「冗談じゃないよ、こんな犯罪者に。」
「其の犯罪者が作るココアに金出す御前も大概だぞ。」
数分前に知ったマスターの過去、聞き流したが、一時間前の自分なら「犯罪者?」と聞いた所だろう。其れより、彼女が知って居る事に驚いた。
二人は問題無く笑い、会話を続けるが、引っ掛かったのは当然だろう。
「一寸待って、何で知ってるの?」
「知ってるさ。」
常識だろう?と云う具合な顔をする彼女。
「だから何で?」
呆れ果てて言葉も出ない。
彼女は云って、煙草を消した。
「あたし、雑誌社勤務。」
「知ってるよ。」
「然もあたし、軍事犯罪専門なの。小遣い稼ぎに原稿取りに行ってるけど。」
「そ、だからばれた。」
マスターはけらけら笑い、店内に何時の間にか甘い匂いを漂わせて居た。
「平和だね、軍事犯罪専門に為ったは良いけど事件無い訳。だから暇で、過去の事件を読んでた。」
そうしたら如何した、何時もココアを作る在のマスターが陸軍元帥で禁固刑喰らって居たのを知った。
「いやぁ、吃驚した。あれ、此のモノクルの元帥、誰かに似てるなぁって。したら何よ、目の前に居るし。禁固刑二十年って書いてあったんだけど、計算合わないから突っ込んだ。」
「大戦が始まった時、陛下の恩恵で犯罪者は全員刑期終了に為ったんだ。其の変わり、有無云わさず一番危険な所に出兵だけどな。」
「マスター、出兵して無いじゃん。」
「…一応、陸軍元帥だったもので…」
「そんなの差別だよね。」
ねー、と真っ黒い目を俺に向けた。
吸い込まれる。と云うよりは、ぐるぐると渦巻く場所に飲み込まれる感覚がした。
父親の目を…いや、其れとは少し違う黒い目を思い出した。
何だろう、此の暖かい懐かしさは。
――新、新。飛行機雲が出来とうよ。奇麗さね。
頭に流れた言葉。
誰だ…。此の女…。
片手で頭を抑えた俺に彼女は黙り、下から俺を見た。
「頭、痛いの。」
「いや…」
「気にするな、新は何時もトリップする。」
「病院行きなよ…」
「ねえマスター。」
「ん?」
「“出来とう”って、何?」
「は?」
ココアをカップに移して居たマスターは首を振り、危ない薬でも遣って居るんじゃ無いかと、危ない事を云った。ココアを貰った彼女は、カップに近付けた唇を遠ざけた。
「何?」
「飛行機雲が、出来とうよ。奇麗さね…」
「益々判らん。何だ其の言葉。」
愛用のカップに珈琲を注ぐマスターはカウンターの椅子に座り、頭を掻いた。本格的に俺が、在の絵師に近付き始めて居ると勘違いした。
然し。
「其れ、佐賀の言葉だね。」
ココアを一口飲んだ彼女は舌で唇を拭う。
「佐賀…?え…?」
そんな、何処にあるかも判らない地方の言葉も人間も知らない。然し何故だ、彼女を見て居ると、全く関係無いとは云い切れない。
「あたし、母親が佐賀何だよ。」
「嗚呼、だから田舎臭いのか、御前。」
マスターは笑う。
「あたし東京生まれ何だけど…」
「滲み出てる、田舎臭さが。」
「出てないっ」
「佐賀、佐賀…」
二人に構う事無く俺は、其の県名を繰り返した。
佐賀…?佐賀…。
一寸待て。
「あ。思い出した。」
そうだった。俺が幼い頃、一人、もう一人女が居た。
祖母だ。
確か、四歳の頃位迄居た。
「そうだよ、御祖母様だ。在の方が佐賀だ。酔うと決まって…」
何だ、気味悪がる事一つも無かった。知って居たんだから、言葉も知ってるに決まって居る。
でも何でだ。
今の今迄思い出しもしなかったのに、何故今頃、こびり付いた記憶が頭を擡げたのか。別言葉を聞いた訳でも無い、彼女の真っ黒い目を見ただけで。
「如何でも良いんだが、在の修羅。」
「何々?」
公爵が批判する内容なだけに、扱う彼女は食い付いた。
「マザコン何だよ。」
「……修羅の癖に…」
公爵に垂れ込む気なのか、何の役に立つのか不明だが、彼女は手帳に“木島はマザコン”と書いた。
湯気に隠れたマスターの顔、カップに隠された口元が動いたのには気付く筈も無かった。
〔
*prev|2/2|
next#〕
T-ss