恋をやめた理由


ユカリは確かに、待つ等一言も云わなかった。俺が一方的に、三年経てば良いと思って居ただけ。だけど俺は、確かにユカリに云った。三年待ってと。
大人になれば相手にして呉れるんじゃなかったのか。在の時微かな希望を見せて呉れたから馬鹿げた禁欲をして迄俺はユカリに誓ったのに、其の終結は呆気無かった。
「本気だって、思わなかった。」
こんな時でも、睫毛は規則正しく俺に動きを見せた。
「二十歳に為りました、だから大人です。本気でそう思うか?」
だったら何時。
何時に為ったらユカリは俺を見て呉れるのか。二十歳に為っても駄目、社会に出ないと駄目、自分を見詰める事が出来る迄駄目、何時に為ったら、ユカリが云う大人に為るのか、其れ迄待つのか、後何年、後どれ位。
俺は何時迄此の地獄に居れば良い―――。
血の臭いのする地獄で、俺は唯只管眺めて居た。触れる事の出来無い微かな光を。ユカリの指に嵌まる指輪に似た鈍い光を。
「あんまりだろう…」
「私が誰と結婚し様が、関係無いだろう。」
一体何の為に、俺は此処に居たのか、全く馬鹿らしく為った。
地獄は所詮地獄、地獄に堕ちた人間が、極楽を夢見るのは馬鹿だった。鈍く光る希望を掴めば極楽に行ける等、何故そんな事を考えて仕舞ったのか、全く醜い其の花は、今ではすっかり奇麗だった。
最初からユカリは奇麗だった、俺は其れを認め無かった。俺だけが知って居れば、俺にしか判らないと、高を括って居た。
地獄が極楽に為る事は決して無い。業火に爛れた足で這い上がる事も出来無いのならば、逸そ作って仕舞おうでは無いか。
極楽から振り落とされた絶望は、地獄では無に変わる。苦痛に泣き叫ぶ事も出来無い無間地獄とは、こんな事を云うのだなと知った。俺に少しでも罪の呵責があれば、ユカリは俺を見て呉れたかも知れない。今更そんな事を思った所で地獄から救われる筈は無い。延ゝと何も無い世界に居る。
「ユカリ…」
極楽で見下ろすユカリを引き摺り下ろした。
「和、和ちゃん…っ、止めて…」
餓鬼の俺は、指先に知ったユカリの柔らかさに畜生に堕ちた。ずっと知りたかった花の匂いは、考え通りだった。化粧でも香でも無い、煤けたインキの匂い。そんな花の匂いに欲情するのは、俺しか居ないと思う。どんな花よりも生々しく、厭らしいく、俺を誘った。
涙が見たい訳じゃない、悲鳴が聞きたい訳じゃない、俺が望んだのは本を見る時の優しい目、柔らかい声、其れは極楽の世界の話で生憎此処は地獄。其れが似合いなのだとユカリに聞かせた。
「何で嫌がるの?亭主に操を立てる為?俺はユカリに立てたよ?律儀に。今更生娘じゃないんだから、亭主の事でも考えて於けば?」
「間違ってるよ、和ちゃん…っ」
「其の間違いを犯させるのは誰?ユカリでしょう?」
在れ程望んだ奇麗なユカリは、遠の昔に誰かに汚されて居た。奇麗な花は、土を掘り返すと、其れは歪な根が這って居るんだ。誰かが世話をしないと、花は美しく為らない。手付かずのユカリは、奇麗とは程遠ったんだ。
地獄とは全く灼熱で、水分は直ぐに蒸発する。舌が焼かれる程の熱がある。
「和ちゃん…、ねえ…、駄目…」
「何で?気持良いでしょう…?」
「だって、そんな…」
鬼灯の実には毒がある。俺はそんな毒に痺れて居た。
地獄に堕ちる事に恐怖を感じない人間は居ないと思う。平然として居られるのは其処の住人、ユカリは堕とされる側で、俺はそんなユカリを待つ住人だった。
餓鬼は赤、畜生は黄、修羅は青―――。其れが混ざり合うと何色に為ると思う。何処を向いても何も見えない、黒。
あんなに好きだったユカリの目は、もう、何処も見て居なかった。
想、黒縄、堆圧、叫喚、大叫喚、焼炙、大焼炙、無間…。
ユカリ、君は一体、何処に居るんだ。俺の居る場所は、何も無い。君への愛も憎しみも罪悪感も、全く見当たらない、唯の真黒い世界。
俺の愛は、始めから奇麗な物じゃなかった。ユカリが見詰めて居たインキの様な、黒だった。なのに俺は、其れが並ぶ白い紙の様な物と思って居た。
紙は白、インキは黒。
始めから、ユカリが見て居た愛(文字)は黒(地獄)じゃないか―――。
ユカリは端から紙(極楽)に興味持ち合わせて居ない。
俺がユカリを地獄に堕としたんじゃ無い、ユカリは始めから此処の住人で、俺が勝手に堕ちたに過ぎ無かった。




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