史上最悪のヴァーデゥル


此の笑顔が曲者である。ほわほわ笑う其の下には、一体何を隠して居る。一見奇麗だと思う澄んだ川、然し奥底には大量の死骸が沈んで居る。此れに騙されてはいけない。奇麗と近付くと足元掬われる。
マウリッツを見てると誠そう思う。
「今日は、機嫌が良いんだね、マウリッツ。」
「そぉ…だねぇ、うん。」
何ともとろい。下流の流れの様だ。
川と云うのは上流は何とも荒い、皆其れを知って居るのに、下流を見れば上流の事等知らないみたく近付く。
今に上流から汚泥が大砲みたく俺を吹き飛ばす、そう警戒し、マウリッツを見る。
マウリッツは川みたいだ。
「機嫌良い流れに乗って、さくさく書類書いて呉るかい?」
完全に無視され、口から吐かれる煙にうんざりした。
「マウリッツ…っ」
「うーん、うん。」
緩やかに手は引き出しに流れ、面倒臭そうに眼鏡を掛けた。
此れ此れ、此の顔。
俺は、眼鏡を掛けたマウリッツの顔が大好きだ。
「嗚呼、面倒臭いねぇ。」
「一枚だけだろう。」
「書いたら解放して呉れる?」
「考える。」
考える、と云っただけで承諾した覚えは無い。俄然遣る気起こしたマウリッツは眼鏡の奥を一光さし、猛スピードでペンを流す。上流の水嵩が増えた様だ。
「面倒臭い、次の書類も書いとく。如何せ要るんでしょう?」
口も滑らかだ。流れに乗って、三枚の書類は仕上がった。
「完璧だよ、ファン・オールド元帥。」
「解放っ」
眼鏡とペンを机に投げ捨て、マウリッツは万歳する。然しマウリッツ、解放されたは良いが暇らしい。幸い俺も暇なので、相手をする事にした。
最初はチェスをして居た。大理石で出来た駒、木とは違いひんやりする。俺がキングを奪うとマウリッツは有ろう事か、ビショップを投げ付けて来た。大理石が腹に直撃した俺は悶え、神の怒りを確と受け止めた。
此れはいかん、上流の汚泥が直撃して仕舞う。
危惧した俺はトランプを見せ、マウリッツの機嫌は一時間すると穏やかに為った。
「ヘンリー、弱いよねぇ。はは。」
「君相手だとね。」
マウリッツ相手だと先が読めない。だって奴はほわほわと笑って居るだけ。全くポーカーだよ。
世間的に俺は、強いとされて居た。マウリッツに出会う迄負けた事等無いに等しかった。然し如何だ、マウリッツには一度も勝った試しが無い。マウリッツがポーカーで負ける事等あるのだろうかと思うが、一人だけ負ける相手が居るらしい、意外な話だが。
マウリッツにポーカーを教えた、和蘭の頂点に君臨する母親。如何遣っても、何を遣っても、生まれて此の方勝った事は無いと云う。
実際俺も一度御手合わせ願ったが、尋常な強さでは無かった。運が味方して居るとしか思えなかった。
「母さんが死ぬ迄には一度位、勝ちたいよねぇ。」
「無理だよ。」
「何でぇ?」
母親だから子供の事は全て御見通し。と云うのもあるが、
「王より上には行けない。」
「そっかぁ。」
勝てない筈だ、とマウリッツは唸る。
五回して、俺は完敗した。
時間も頃合い、帰ると云った先、部屋に柔らかいノック音が聞こえた。
「マウリッツ王子。」
王子、と敬称したのを聞き、相手は王室関係者と判った。軍関係者だと「マウリッツ様」或いは「元帥」と呼ぶ。癖で「王子」と呼ばれる事はあるにはあるが、今日は俺が居る事を知って居る為、軍関係者が「マウリッツ王子」は流石に無いだろう。
「失礼を。」
「良いよぅ、遊んでるからさぁ。」
黙礼した側近はばつ悪そうに床を見る。マウリッツの住む場所から此の基地は随分と離れて居る。余程の急ぎだったのだろう、側近は来て仕舞った。
「王子、申し上げ難いのですが。」
「うん、何かなぁ。」
側近の後ろから怖ず怖ずと現れた顔、マウリッツには余り似ない髪色をした子供が居た。
瞬間マウリッツは机に頭を打ち付けた。流水を塞き止めて居た岩が落ちた様な音だった。
良く忘れるのだが、マウリッツには三人子供が居る。上は七歳の娘で、下は二歳の息子。側近の後ろに居たのは、丁度中間の男児、詰まり、正妻との子供であると判った。
聞いては居たが初めてマウリッツの息子を見た俺は思わず寄って仕舞った。
だって此れは、愛らしい。
「初めまして、ヘンリーだよ。」
挨拶したが御子息は珍獣を見る目で俺を見る。此の目はマウリッツに良く似て居る。
「無理無理。」
マウリッツは云う。
「其の子頭悪くてさぁ、英語判らないんだぁ。」
「そんな…こんな可愛いのに…。マウリッツに似たのかい…?」
「僕、英語判るんだけどなぁ…?」
にっこり笑顔を呉れたが、下瞼と口端は痛々しい程痙攣して居る。大きな岩が、ゴロゴロと、動き始めた。
「何で?」
厳しい声色でマウリッツは側近を咎めた。
「何で連れて来るの?遊び場じゃないんだよ?判るよね?」
「其れは、はい…」
マウリッツの言葉が口からどうどうと溢れ出す。澄んだ水が、ゆっくりと汚泥に変わってゆく。水底は轟々と渦巻く。
汚泥の大砲が、ゆっくりと向きを決める。
「マウリッツ、俺は構わないよ…?」
和蘭語は生憎判らない。判らないが、父親の静かな怒りに怯える子供は如何にかしたい。
「口、挟まないで。」
俺の手前でか声は荒がう事は無い。然し、マウリッツの中を轟々と流れる怒りは肌で感じた。
「出て行き為さい。」
マウリッツはふわふわと笑って居る―――俺は表面しか知らない。此の厳しい声色は明らかに俺の知り得ない姿だった。
「貴方も貴方だ、此処が何処か…」
云い掛け、マウリッツの口は岩に塞がれた。流れの止められた水は少しづつ貯まってゆく。岩の前の流れは、先程と変わらない姿を見せ、緩やか。如何か此の侭、貯まった水が掃く事を願った。
「母さん…」
マウリッツ以外、全てが身体を屈した。
「陛下。」
「御無沙汰致しております、陛下。」
「あら、英吉利のベイリー元帥じゃないの。あらそうなの、今日はベイリー元帥だったの。」
用事は済んだ、即刻引き上げると申し出たが、「あら良いのよ」と真っ白い掌を見せた。
突如現れた母親の姿に、岩は動く事を忘れた様に止まって居る。
「母さんだね?此奴を此処に呼んだのは。」
小さな息子は、振り落とされる冷たい父親の目に益々縮んだ。
息子の我が子に対する冷酷な仕打ちに陛下は額を押さえ、小さな栗色の頭を撫でた。
「貴方、此の子に最後会ったのは何時?」
「知らない。何時だっけ。」
「此の子だけじゃないわ、後の二人もよ。」
「云うけどさぁ母さん、僕、子供欲しいって云った?側室は勝手に産んで、此奴はさぁ、母さん、陛下が望んだ物でしょう?」
「マウリッツ。」
「僕には要らないんだ。要らない物を僕は見ない。」
強烈な突風がマウリッツの頬を直撃した。此れは岩を動かし兼ねない。塞き止めるられる水は、段々とどす黒く為る。
「…判ったよ。」
叩かれた頬を触る事もせず、マウリッツは御子息にしゃがんだ。
「遊びたいの。」
「はい…」
「在のブロンドの御兄さんが遊んで呉れるよ。子供好きだから、僕には理解出来無いけど。」
肩越しに指された。俺は、何と無く状況を理解し頷いて見せたが、陛下が首を振った。
「マウリッツ。貴方と遊びたいのよ。」
「僕は嫌なの。」
「命令です、元帥。」
初めてマウリッツの舌打ちを聞いた。
岩は静かに動き始めた。




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