ギザギザハートの子守唄
陸軍に埋め尽くされる広場、微動せず壇上に視線を向けて居た。私は随分と離れた、壇上で演説する人物が見えない程の場所で其の演説を聞いて居た。本来なら父が見に来る筈だったが、体調が芳しくなく、代わりに出向いた。
鼓膜を震わす声、姿が見えないのが残念だった。一語一句逃すまいと、壇上を睨み付けた。
圧倒的な陸軍の優位態勢、海軍の私は唇を噛む事しか出来無い。壇上に踊り出る彼は、国の頂点に君臨して居た。
絶対的なカリスマ性、洗脳に近い演説、宗教の集会に居合わせた気分だった。
軍事国家―――則ち国を上げての布教。
誰一人として、教祖である彼の言葉に疑問は持たない。心酔し、共鳴する。其れが当然だと、正しいのだと、信者は疑わない。
声が大きく為るに連れ、「万歳されるのは俺だ」と心に語り掛ける。彼の思惑通り、日章旗を背ではためかせた彼は、何千と居る信者の万歳を我が物にした。
「馬鹿馬鹿しい…」
陸軍の教祖の話に興味等無い。私は仕方無く出向いたが、正直胸糞悪い事此の上無い。こんな気分を知る為に学校を休んだのか、私は。幾ら父の命令とは云え、誠の馬鹿では無いか。明日は精々、クラスの奴等と陸軍批判でもして遣ろう。
万歳されるのが、畜生と成り下がった在の教祖…。そんなのは認めない、許さない。
万歳と聞く度、思い上がった彼にムカムカして来た。
「はあ…」
腹立たしさで壇上を睨み付けて居た私は、横から聞こえた溜息に視線を向けた。
信者なら信者らしく、会場に居れば良い物、溜息を見せた彼女は私同様に浮かない顔をして居た。
横顔だが、愛らしい顔付きなのは判った。何処かの令嬢なのか、付添人が二人、座る彼女の世話をして居た。一人は男で日傘を持ち直立で、武道の達人です、と身体で表して居た。物騒なのは会場からの熱気で判る、彼の言葉に洗脳された人物が、何時騒いでもおかしく無い。宗教は大きく為ると、決まって意味を履き違えた気違い、或いは興奮した気違いが出る。集会日なら尚更、日傘を持つ男はそんな輩から彼女を守るのだろう、物凄くがたいが良い。日傘だがかなり頑丈そうである。
一人は女で横に座り「御暑ぅ御座居ますねぇ」と扇子で風を送って居る。此方は唯本当に、付き添うだけの存在である。然し何故か、何時使うのかは判らないが竹箒が傍にあった。彼女が歩く前を穿くのだろうか…。
「本当に困った御方。」風を送られる彼女は云った。付添人の二人は黙った侭微笑した。
「ええ全く、本当に。」
同じ思いの人間が居た事に喜んだ私は、彼女の言葉に便乗した。彼女が向く前に付添人の痛い睨みを貰い、睨まれる覚えの無い私は苛立ちを強まらせたが、風化させて仕舞う程の笑みを見た。
女人の笑顔に絆された事一度も無い筈なのに、彼女の笑顔は確かに私を絆した。未だ曾てない感情に私は狼狽えた。
「節子、村上、御止め為さい。」
私を睨んで居た二人は、主人の声に大人しく引き下がった。何事も無かった様に、村上と呼ばれる男は前を向き、節子と呼ばれる女は扇子を動かした。
私にきちんと向いた彼女、随分と幼い顔立ちをし、正確な年齢が判らない。私より上にも見えるし、妹より下にも見えた。顔が幼いのに雰囲気は大人の色香を纏う。随分とちぐはぐな人だなと思い、こじんまりとする鴇鼠色の身体に視線を流した。
花弁を撒き散らした様な染め抜き施す膝の上に乗る手、ちぐはぐな理由が判った。
人の妻だ、だから幼い顔立ち乍らも妙な色気を持って居る。此れは中々、余程愛されて居るらしい。
女人の笑顔には揺るがない私だが、色気には揺るぐ。男なのだから当然ではある。
「在の方、自分が一番好き何ですのよ。」
壇上に一瞥食らった。其の目はとても見下した物で、色気を増幅させた。大きな両目の真ん中に位置する小さな鼻を鳴らし、在の馬鹿にした顔が見間違えかと思う笑顔に戻った。
「海軍校の方ですわね。」
「はい。」
「態々陸軍の教祖の演説を聞く何て、海軍も御変わり遊ばしましたのね。」
陸軍と海軍の仲悪さは誰でも知って居る。彼女は皮肉り、肉厚な唇を真横に引く。
「ワタクシ、考えは海軍寄りですの。」
「と、仰られますと。」
「…其方様が心酔、崇拝遊ばすのは、御上、唯御一人に御座居ましょ?」
其方様、と云う彼女は、陸軍側の人間。可憐な彼女が在の宗教の一味だと知った私は如何言葉を繋いで良いか判らなかった。
「木島様万歳か…」
きらきらと輝く瞳は冷たさに凍り付いた。
「………笑かして呉れる。」
彼女は確かにそう云った。扇子を動かす女は動揺も見せない。直立不動の男はくすんと笑う。
「然し時恵様。」
「なあに?村上。」
「和臣様はこう見ると、閣下に似て御出でです。」
「………胸糞悪く為る事云わないで頂戴。」
女から扇子奪った彼女は男の腹に一撃食らわし、自分で扇ぎ始めた。流石は武道の覇者(かは知らないが)、変わらず前を向いて居る。
「時恵様。」
「口利いてあげないわ。嫌いよ、村上。」
余程不快な事を云われたのだろう、拗ねた彼女は、…一寸可愛い。では無く、苛立ちを拭い去る様に扇子を動かす。女はくすくす笑って居る。
「時恵様。」
「なあに、節子。」
「御時間に御座居ますわ、帰りましょう。」
彼が浴びる万歳は一つのうねりと為り、会場に巨大な生物を作り上げて居た。
造物主、彼は全く其れだった。
軍事国家を作り上げ、新た為る万歳を作った一帝國の天帝。
壇上から人影は消え、此の群集が動くのは時間の問題だった。
女は彼女の手を持ち立ち上がらせ、しゃりん、と本当に微かな鈴の音を聞いた。挨拶は互いにせず、彼女が歩く度鈴は鳴る。ずっと鳴って居たのだろうが、周りの音に消されて居た。
男は日傘を持った侭後ろ、女は箒を持って横を歩いた。だから何の為に箒を持ち歩いて居るのか、此れだけ聞いて於けば良かった。
季節外れの桜、私は其れを見た。勿論彼女を比喩したのもあるが、会場に真っ白なビラが降り注いだ。此処からの距離では、桜が一斉に散った様な景色だった。其のビラに何が書かれて居るのか、大して興味は持たなかったが、強烈な突風が会場を走り、一枚私の傍に落ちた。拾い上げて見ると、まあ何とも腹の立つ驕り高ぶった文字が並んで居た。機嫌の悪さ最高潮に達した私はビラを細かく破り、両手に載せた。花弁を掬い上げた、そんな感じだった。
こじんまりとした彼女を私は思い、息に乗せた。はらはらと散り、地面で渦を巻き、そうして消えた。
まるで、数分前の情景みたいだった。
「時恵様、か。」
惚れるには難しい相手。人の妻云々、陸軍側。
耳に残る彼女の声、墨汁に牛乳を一滴垂らした、そんな感じがした。
私は恋を知らない。
此の感情こそが恋だと気付いたのは、暫く経った後だった。
彼は全く造物主。私に恋愛感情たる邪魔臭い物を作った。彼女が彼の妹で、在の場に居なかったら、私は知らずに済んだ。
手に出来無い物は何も無かった、其の唯一が彼女。何をしても手に出来無い、そんな彼女を手にする彼が憎かった、羨ましかった。
彼は全く造物主、劣等感と敗北感を作って呉れた。其れでも悪い気がしなかったのは、彼女の笑顔に絆されたから。敗北感でも心地好いと、彼女は教える。
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