酒と思い出


自宅の自室、云うよりは風呂便所共有のアパートの一室みたいであった。約二十畳の部屋は、ドアー真っ正面に机があり、右手が居住空間、左手が寝室と云う案配だった。机とベッドの間に衝立が置かれ、本当に二間のアパート其の物だった。
入って右手から説明すると、所謂玄関と位置付けされる場所には絨毯が敷かれている。其の絨毯に向かって小さな靴箱が置かれ、中には十足程草履やら革靴がきちんと並ぶ。其の靴箱の背面側に姿見と箪笥があり、其の“フィッティングルーム”の後ろ…壁に沿って酒棚がある。そして机と並ぶ。
其の侭左手に視線を流すと衝立を越え、ソファとベッドが一体に為った様なベッドがあり、其の横、改造された押入れには大量の本を保管する本棚があった。
計算された配置と空間、和臣の頭の中を覗いた気分だった。
思わず、お邪魔します、と云い掛けた。
ドアーの外で靴を脱いだ和臣は絨毯で数回足を擦り、靴箱にきちんと靴を仕舞うと馨を手招いた。
並んだ馨、和臣の視線が上下に動いた。
「何か。」
「え?」
「ワタクシの靴は外で大丈夫ですか?」
「お前、案外低いな。」
何故こんな違和感を覚えるのか、靴を脱いだ馨への視線が一気に下がった事が不思議で堪らなかった和臣は納得行った。云われた馨は喉を詰まらせ、顔をゆっくり逸らした。
「貴方よりは、マシかと…」
「お前どんだけ身長偽装してるんだよ、吃驚して酔いが冷めた。」
馨の視線が低い、其れだけで酒が美味しく感じられた。
和臣は確かに身長が低いが、偽装して迄虚栄を張る気は無い。如何やったって低いのに変わりは無い。其れが如何だ、此の海軍元帥は。無様とも取れる姿を和臣に晒した。
「身長低くても生きて行けるぞ。」
「ワタクシは嫌です…、身長で埋れて仕舞う等御免です。」
「十センチ縮んでも俺よりでかい、安心しろよ…」
はっきりと釣り上がる馨の口角、はっきりと馬鹿にされた。
「腹立つなぁ、其の顔。」
「いいえね、想像以上に木島さんが低くて。」
「お?馬鹿にするなよ?チビでも女に不自由した事は無い。ハゲよりマシだ。」
「ワタクシは何も、女性に言い寄られたいが為に、身長偽装して居る訳では御座居ませんよ。ハゲても居りません。」
だったら何故十センチも身長を誤魔化すのか、其れは周りの身長に影響する。
馨ははっきり云って秀才だ、其の為成長期前に学年が飛び、周りは自分より身長体格が一回り大きかった。其れが馨のプライドを傷付けた。成長期終えた人間が成長期前の人間に対し“チビ”と貶すのは団栗の背比べで、然し不安定な時期の子供には、成長期前の馨は鬱憤の良い捌け口だった。頭は良い癖に身長は以下だなと罵られ、馨の身長に対するコンプレックスは成長期終えた今でも払拭出来て居ない。
とは云っても、其処迄低い訳では無い。平均なのだが成長期前に受けた傷の所為で「自分はチビだ」と思い込んで居る。
思い込んで、居たのだが…。
目の前にはっきりとした“チビ”が居た。チビだチビだと思う自分より明らかに小さい和臣。馨の歪んだ優越感がゆっくりと満たされた。
「俺も偽装し様かな。」
和臣は素直に自分の低さを呪って居る。後十センチなんて高望みはしない、五センチ…いいや二センチで良いから身長が欲しい、そしたら人生薔薇色なのに…と昔から思って居る。
「五センチ……其れで何センチです?」
「一七三…」
「おやまあ。」
何も云うまい。五センチ身長伸びた所で、低いと信じて疑わない馨より低い。
「ヘンリーにも馬鹿にされる、カズオミ チッサイノ カワイイって。態々日本語で云うんだ。」
「可愛い、ねぇ。」
「あの矢鱈無駄にキラキラした海軍元帥は、俺を視界にさえ入れないッ」
「其れは納得行くかと。」
「何でだッ、一寸低いだけだろう?其処迄云う程低くないぞ、多分ッ」
「全体的に細っそりしてらっしゃるからでは無いですか?」
和臣を“カワイイ”と云ったハロルドも、身長の低さを馬鹿にされる。が、馨は余りハロルドの身長を意識した事が無い。体格だ、ハロルドの体格はかなりしっかりして居る。一方で和臣は細い、だからハロルドからも“小柄”と思われる。
同じ身長でも服のサイズが違うと、サイズが小さい程“小柄”になる。
「如何でも良いが俺、Sサイズのドレスが入る。」
馨の口から酒が漏れた。
「ドレス…?」
タキシードなら未だしもドレス。意味が判らない。和臣は自分が思う以上に変態なのか?
趣味…?
悪趣味極まりない。
「何故、ドレス等…」
「違う、此れはちゃんと理由がある。仕事だ。」
「へえ…」
何て素敵な仕事だろうか。是非一緒に仕事をしてみたい。
「違う、そんな目で見るんじゃない。上司…元帥命令だったんだ、俺に拒否権は無い。」
「でしたら其の元帥が変態でらっしゃったのですね…」
「違う、違う。」
全然違う、とあの時の羞恥と馨の視線の怒りを酒で誤魔化した。
「…社交場だ、社交場、判るか?国中の偉い人間が集まるパーティーだ。」
「ええ。」
「其の場所では、基本男女で居るんだ。」
「其れで?」
「其れで…元帥は…女の知り合いが一人も居ない…結婚もして無い方だったから…、俺が…」

――木島、助けろ。
――何?
――何も聞かずにドレスを着て、俺と一緒に鹿鳴館に行って呉れ。

自分も、男としてのプライドの為必死に拒絶した、女が要るなら自分が用意するからと、けれど切迫詰まる元帥の目は何処も見て居なかった。此れで若し横に居る女の正体が知れたら、取り巻かれる噂が真実となる―――矢張り男色家、と。其れも和臣、唯でさえ和臣は当時、色白と顔付き、終始元帥に付いて回って居た事で“元帥の男妾”と揶揄されて居た。

――色白の女顔ならもっと他に居るよッ
――駄目だ、木島で無いと俺が落ち着いて仕事出来ん…
――嫌だ…、嫌だ嫌だ、絶対にい………

嫌と、強く云えなかった。
あの強い目が、弱々しく縋り付いて居る……。
此の申し出を断ったら“自分が如何なるか”より“目の前の人物が如何なるか”の方が気になった。
「おやまあ…愛ですね…全く全く…」
心底馬鹿にし、酒を飲んだ。
「其れで、如何なったのです?」
「出たさ、行ったさ、仕方無いだろう。ずっと俯いて、何も話さなかった。まあ、話したら一発でバレるしな。」
其の時そうして居たのか、和臣は今にも泣きそうな顔で肩を竦め、俯いて居た、特徴的な唇を一層尖らせて。
「でも、話さなかったのは、バレるからじゃなかった。」
酒を飲む和臣の姿を、馨は無言で、酒を流し乍ら見た。
「先に云っとくけど、俺、男が好きな訳じゃ無いから…」
今にも和臣の心臓の音が聞こえそうな程目元は羞恥で赤らみ、馨を窺った。其れを無言で、矢張り馨は流した。
何だ、此の可愛い生き物―――。
ハロルドが可愛いと云った理由が何と無く理解出来、相当酒が入って居るのを自覚した。
「格好…良かったんだ…、正装した元帥が…、平服軍服は薄っすら青み掛かる白なんだけど、正装軍服は純白で、赤いリボンが、肩から流れてるんだ…、其の時初めて元帥の正装見て、心臓が飛び出るかと思った…、あんまりにも格好良いから、顔が見れなくて、黙ってた。」
「然しまあ、其の感情は普通だと思いますが。」
何時もの否定を覚悟して居ただけに、すんなり肯定された和臣は、物足りなさに顔を上げた。
「ワタクシも、父上の正装には、敬意と羨望を持って居りましたから。」
「嗚呼、加納さんの正装か。」
和臣は馨から目を逸らし、緩んだ口元で遠い日を眺めた。
「あれは確かに格好良い。横に並ぶのが嫌だったな。貫禄と威厳が違い過ぎる。あの人と対等に並べるのって、やっぱり元帥しか居ない気がするんだよな。」
何方を思って云うのか、和臣の其の顔は羨望に緩んで居た。
空になったグラス、継ぎ足そうとしたが和臣は上に手を乗せた。其の侭立てた足を抱え、膝に頬を乗せた。
「ワイン…行くか。」
「お好きに。」
「飲むか?」
「ワタクシは此方で結構ですよ。」
瓶には十センチ程残る、此れ位なら一人で飲めそうだった。
煙草とワインの匂いが調和した空気の匂いを、馨は初めて知ったかも知れない。窓の外に見える黒い影は囁く様に揺れる。言葉無く窓の外を見乍ら煙草を吸う和臣の音が、此の部屋の呼吸の様に感ぜられた。
薄い唇にゆるりと流れるボルドーの液体、当然の様に、何の問題も無く和臣の血となる。
「あの時も、こんなだった。」
心地良いと感じる沈黙は和臣の言葉で一旦終わりを見せたが、決して悪い物では無かった。
「あの時?」
「俺の女装事件。」
「嗚呼。」
想像は容易く、侮蔑では無い笑いが出た。
「あんまりにも恥ずかしくて、一番最後に帰ろうと思った。元帥も忙しそうだったし、途中から個室に居たんだ。」
中庭を眺め乍ら、ドレスを毟り取りたい衝動を必死に抑え、ワインを傾けた。来賓者は社交に忙しいのか、或いは違う部屋で雑談するのか、和臣の居る部屋に人が近付く気配は無かった。其れを良い事にスカートたくし上げ、テーブルに足を乗せ、早く終われと煙草を蒸かした。
「一時間位したら大広間が騒がしくなって、嗚呼やっと終わるなって、安堵した。」
正体はバレなかったし、元帥に恥は掻かせなかった、漸く此の悪夢が終わると二本目のワインを取り出した時、ドアーが開いた。

――何だ、此処に居たのか。探したぞ。

自分は男で向こうも男、けれどはっきり、あの一瞬だけは女だった。
此処に居たのかと囁かれた言葉に、自分がどれ程此の男を欲して居るのかが判った。

――…終わった?
――嗚呼、後は何か、適当にするみたいだな。

きちんと編まれて居た三つ編みを解き、どかりとソファに座る。和臣のグラスを勝手に空にし、そして催促迄した。
元帥の前にちょこんと座り、此の人は何時迄居るのか、帰れないじゃないかと、グラスを傾けた。
身長は、かなり違う。けれど手の大きさは余り変わらない。なのにあの時だけは光の加減か、矢鱈大きく見えた。
目を伏せた侭淡々とワインを流し込む和臣の動きを止め様と、頬に手が伸びて来た。
「吃驚した、本当に。」
元帥が自分に触れて居る事に。
当然視線は合い、グレイの瞳に吸い込まれた。

――元帥…?
――本当に、女みたいだな。
――女顔は自覚する所だよ…

後頭部に伸びた手は、パチン、軽い音を立て和臣の髪を解いた。

――嗚呼、髪型の所為か。

「髪型?」
「嗚呼。今より少し長くて、…お前位の長さだったから、後ろで纏めてた。」
其れを外した時何時も知る和臣の顔になった。

――外すんじゃなかった。

掌に転がる小さな髪留めを眺め乍ら元帥は云い、解いた自身の髪を再度編んだ。
立ち上がる姿を見上げ、漸く帰るのかと顔を逸らしほくそ笑んだ時、いきなりスカートを捲られた。

――何ッ?
――やっぱり。
――やっぱりって?
――靴擦れ起こしてるな。

「女の靴ってのは窮屈でな、オマケに踵が高いんだ。」
重心が前に行き、其れを真っ直ぐにし様と背中を反らせば、かなり足に負担が掛かった。立って居るのがやっと、個室に逃げ込んだのは靴を脱ぎたかったからかも知れない。
赤い擦れを見せる剥き出しの足に大きな手が触れた。膝を付く元帥の頭を、白い背中と一緒に眺めた。
囁く木々、赤いワイン、純白の元帥、漆黒のドレスを纏う自分……。

――…はぁ…………

髪とソファが擦れる音を聞き乍らゆっくり息を吐いた。薄く開いた目で、仄暗い天井を見た。
「え…?」
「…此処は濁すぞ。結構恥ずかしい。」
テーブルからグラスが離れる音、暫くした後、細長い視界に元帥の顔が映った。肩から流れる長い三つ編みの先が手に触れた。
「いやいや、濁さないで下さい。」
「奇麗な白髪なんだ、元帥。」
「其処では御座居ません、もう少し前ですッ」

――元帥…?

肉厚な唇にワインが飲み込まれる様を見、其の後ワインが如何なったか……喉の動きはなかった、元帥の。
「木島さんッ」
「煩いな、発想しろ、発想。」
「発想って…」
詰まりこういう事…。
知るワインの渋み。其れより強烈な感触に目を閉じた。

――……っ…ふ……

自分の唇に付いたワインを舐め取る舌先、口端から零れ落ちたワインを拭う指先、優しく前髪を撫でる掌の熱さに目が閉じた。

――何やってるんだ、俺…、本物じゃないか…

「後はもう、想像しろ。」
口元押さえる馨から離れた和臣はベッドに横たわり、静かに目を閉じた。

――元帥。

十年以上も前のワインの味が口に広がる、一日も忘れた事は無い。
首を支えられ乍らソファから腰を離し、膝の上に乗った。
布の擦れる音と葉の擦れる音は良く似ている。自分が聞いているのは果たして何方か、和臣は揺れるグレイの目を見詰めた。

――乗って来るなよ。
――乗れって、命令が来た気がして。
――妄想じゃないか?

薄暗い中で見た笑顔、其の笑顔に胸が圧迫された。コルセットの所為なんかじゃない、そう自覚すると益々胸は締め付けられ、元帥の顔を手で包み額を付けた。

――離れろ、木島。
――嫌…
――良い子だから、な?
――嫌だ、絶対に、嫌だ……

モノクルが、一層月明かりを吸収し、其の眩い一本線は頬で消えた。

――なんで泣くんだ。

泣いている自覚は無かった、だから言い訳がましく、コルセットがきついと云った。互いに判る筈なのに、元帥は「そうか」と一言云った。
切れる様な、云うなら鞭が振り下ろされる様な音に和臣は肩を強張らせた。

――ゆっくり息を吐け。

言い訳でコルセットを引き出したが、本当に此れも原因だったのかと、少し緩んだコルセットに深く息を吐いた。自分でも驚く程吐き出した声は甘美で、慌てて口を塞いだ。

――…喘ぐなよ…、御前ホモか。
――喘いでないよッ、ホモでも無いよッ
――そう…
――そう…、元帥も、でしょ…?
――嗚呼、違う…

元帥の高い鼻先が和臣の鼻先を擽り、違う違うと言い合っても、重なり合う息が離れる事は無かった。

――離れろ、木島…
――元帥だって、そう云うなら離れてよ…
――御前が離れろ…

頼む、離れて呉れ……。
そう元帥は言い続け、言葉と反対に近付いて来る口元を固定したのは何故だったのか、和臣にも判らなかった。
肉厚な唇の間から割って入る同等な厚みを持つ舌先を和臣は受け入れた。唇が厚い奴は舌迄厚いのか?そう思う程で、和臣の薄い舌は肉厚な舌に絡め取られた。
ゆっくりと進入する舌を受け入れ、もう駄目だ、そう思った時には遅く、和臣の上体は後ろに落ちた。
和臣が後ろに力を抜かした事で元帥の意識がはっきりとした。一方和臣も、キス一つで力が抜けた醜態に我に返った。

――……何やってるんだ、俺達は…
――判らない、何やってるんだろう…

余りの醜態に血の気が引いて来た和臣は、身体を離すが、何故か身体は浮いた。

――一寸…、下ろしてよ…、やだ、やだ此れすっごく格好悪い…ッ
――格好付けて屁っ放り腰で帰るか?腰抜けてるだろう、馬車迄送ってやる。

人が疎らだったのが救い、紳士で名高い元帥だからこそ此の行動は絵になって居た、現に居合わせた婦人達が微かに頬を赤らめて居た。
ゆっくりと近付く影、まさに鬼の形相で詰め寄る木島宗一郎に元帥は舌打ちした。和臣も俯き、父親の顔を見ない事で醜態を隠そうとした。

――何をした…
――別に。腰が抜けてるだけだ。

元帥から父親に引き渡された和臣は一瞬元帥の顔を見たが、父親の余りの形相に押し黙った。本気で怒って居た。
御者は一瞬、其の唯ならぬ主人の怒りに怯えたが、無言で扉を閉めた。

――紳士の御前に免じて、黙って於いてやろう。
――……お休みなさいませ閣下。

絡む視線を断ち切る様に馬車は動いた。
後日、三階東の個室に黒い靴をお忘れの御婦人いらっしゃいませんか、と連絡が着た。明らかに和臣だが、元帥は「さあ知らんな」と電話を切った。

――良かったの?
――何がだ。仮にあの時の連れだとして、俺は連絡先を知らん。どんな女だったかも覚えてない。…お前には似てた。

「木島さん…」
「…何だよ煩いな。今いい感じに酒が回り始めてるんだよ。」
「此のゴミ箱に…吐き出しても宜しいでしょうか…」
駄目、と云う前に不吉な音が聞こえ、和臣は目元を押さえた。
「頼むから其れ、其の侭捨てて帰って呉れ…」
「帰ります…」
「嗚呼…」
動く馬車の音の中で、其れだけははっきり聞こえ、外を見様と動いた和臣だが父親にあっさり止められた。

――お休みレイディ、又お会い出来ると良いですね。いい夢を。

馨に云ってやっても良かったが、別に紳士で通って居る訳でも無いし、云った所で見るのは悪夢だろう、其れに和臣も思い出したくない。
「此れは悪夢だ、そうに決まってる。」
後日、如何しても顔合わせしなければならなかった。明らかに避ける馨、和臣も視線を合わせなかった。
「木島さん…先日の、事なのですが…」
「酒、有難うな。」
「あれは、現実だったのでしょうか…」
「現実?何云ってるんだ、全てお前の妄想に決まってるだろう。」
元帥程スマートに、紳士的には行かないなと、和臣は怯える白い背中を眺めた。




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