女だった頃


此処は、何処だろう。
確かにさっき迄母の手を握っていた筈なのに、しまった。一寸気持ちを取られて、見失しなった。
知っている人間が、誰も居ない。母は何処。
何れ、母も居ない事に気付くだろう。此処は賢く此処に居よう。そうすればきっと見付けてくれる。
そんな思いで少女は地面に座った。
人って大きいな。
そう思った。
どれ位そうして居たか判らないけれど、結構な時間だと思う。何故母は来ない。
不安で涙が滲み、足元を歪ませた。
其の時影が出来た。漸く気付いてくれたかと少女は視線を動かした。
しかし。
母の淡い裾とは違う足元だった。
此の色合い。陸軍だ。
少女は顔を上げ、見下ろす影を見た。
逆光で怖い。其れだけでも怖いのに、長い髪が又怖さを出していた。
「あ…」
声が震える。
「御嬢ちゃん、一人?」
何て、何て切ない声何だろうと少女は思った。
陸軍何て、初めて見た。父が云っていた事を思い出し、俯いた。
陸軍に何か関わるものでは無いよ。彼等は人が違う。野蛮で、自尊心だけは異様にある。全くね。
少女は俯いた侭、鼻緒を触った。
「おいこら、無視するなよ。」
「ひっぃっ…」
行き成り視界に入る、野蛮な自尊心の塊に少女は小さな悲鳴を上げた。
「ひいって…」
其の陸軍さんは、将校だった。其れ位なら少女にだって判る。
「困ったな…」
少女だって困る。皆困っている。
「何も云わねぇなら、此処に一人で居るか?」
「…………嫌。」
「女はやっぱり素直じゃねぇとなあ。うん。」
云って陸軍さんは少女の横に座った。
「親は?誰と一緒に居た?」
「御母ちゃま…」
「其の御母ちゃまはどんなだ。」
少女は母の特徴を云った。
其の時丁度又陸軍さんが一人来た。
「おい!五十嵐!」
「あれ。何してるんですか。白昼堂々少女相手に淫行ですか?」
「………五十嵐は今月の給料無しって経理に云っとくわ。」
「嗚呼!嘘ですよ!迷子ですよね、はい。」
陸軍さんって本当に野蛮だなと少女は思った。
陸軍将校さんは五十嵐さんに少女の母親の特徴を伝えた。
「あーはい。判りました。淡色の和服を御召しになった誰かを捜してそうな挙動不審な淑女を捜せば良いんですね。」
「そう云う事。」
そんな事で良いのだろうかと少女は思ったが、何も云わなかった。なる様になるだろう、そう考えた。
其れから又二人になって、会話も無かった。少女は何もする事が無く、陸軍さんの横顔を見ていた。
漆黒の、長い髪。
家にある漆茶碗を思い出した。
ゆっくりと其の髪が動き、此れ又深い闇の様な目が少女を捕えた。
「御金取るよ。」
「え?」
大人には通じる冗談が、流石に少女には通じず、キョトンとする少女に陸軍さんは優しい目を向けた。
其の目に、とくんと、少女の心臓が鳴った。
悲しい目なのに、酷く優しい。
心臓が鳴る度に、身体が浮く。
陸軍さんの手が少女に伸び、そっと髪を触った。
「御嬢ちゃん、綺麗な髪してるね。」
云って毛先にキスをした。少女の心臓は爆発寸前だった。
「大事にしろ?髪の綺麗な女は、良い女の証拠だ。」
「だったら…」
「ん?」
少女は云った。
「貴方も良い女?」
今度は陸軍さんがキョトンした。
「俺は良い男なの。」
そうか。此れを、良い男、と云うのだなと少女は勉強した。
「綺麗に結わなくても、光り放つ美しさがあれば、其れだけで充分。髪の綺麗な女は、心が綺麗何だ。」
「ふぅん。」
陸軍さんの優しく悲しい目に、少女は視線を逸らす事が出来無かった。声は呪文の様に耳に入る。
ふわふわと、夢心地。
「居ましたーっ!淑女発見ですーっ!」
其の声に少女は一気に夢から現実に引き戻された様な感覚がした。
「案外早かったな。」
陸軍さんは腰を上げ、そうして少女を抱き上げた。
漆黒の髪がふんわりと浮いて、靡いた。
「さて、御母ちゃまの元に帰ろうか。」
其の笑顔。
少女は目に焼き付けた。
其れから少女は、数ヶ月後、父が海軍元帥になるのを境に、在の陸軍さんが綺麗と云った髪を切り落とした。

男装の麗人が、誕生した瞬間である。




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