馨しい雅俗


初めて肌を重ねた相手は、同性だった。男として生き始めた自分には当然と云えばそうなのかも知れない。元から女が好きと云う訳では無く、自然の流れでそうなった。
相手は、年上の娼婦。
彼女は、兄に呼ばれたのだが、諸事情に依り私と一夜過ごす事になった。
彼女は兄に会った早々、其の美しい顔に平手打ちを喰らったのだ。当然彼女は訳が判らず、口論になった。私は其れを聞いていた。父達は、不在だった。其れが兄を暴走させ、剰え、私をも暴走させた。
帰ると喚き立てる彼女に兄は更に折檻を加えた。
兄は、性欲を満たしたい為に娼婦を呼んだのでは無い。歪んだ其の癖(ヘキ)を満たしたいが為に呼んだに過ぎない。彼女は娼婦。金を貰った以上、兄が満足する迄帰る事は許され無かった。
一時間、二時間。どれ位経ったか判らないが、読み掛けであった本は閉じられた。特にする事も此れと云って無い為、私はベッドに身を預け、兄の折檻する音を耳に入れ乍ら、瞼を閉じた。
ゆらゆらと回る頭は、勢い良く閉められたドアーの音に依り冴え、重い瞼は上がった。漸く終わったのかと私はベッドから抜け、兄と擦れ違った。
数時間前迄、珍しく眉間に皺寄せていた顔は、不気味に笑っていた。眼鏡が、無い。
私は聞いた。
「兄上、御眼鏡は。」
すると兄は思い出した様に笑った。
「煩いので、口に入れました。新しく作ります。」
私は頷き、明日の予定を頭に刻んだ。
兄と入れ変わりに、私は其の部屋のドアーを開けた。兄の始末は、専ら私がする事になっている。薄暗い部屋で塊を見付け、私は近付いた。彼女は強請り、くぐもった声と共に大量の涙を流した。
私は落ち着かせ様と、優しい言葉を選び乍ら一つずつ拘束を解いていった。
成程。
今日の兄は、一層機嫌が悪かった様見受けられる。明かりを点け、一瞬目を背ける程に。
何故此処迄…。思い出し、兄は昼間、学校にて叱責を受けていた。父になら機嫌を損ねる事無く真摯に受け入れるのだが、低俗と普段から罵る教諭に受けた叱責は兄の高い自尊心を抉り、マグマの如く血を吹き出させた。
彼女の、此の傷の様に。
白い柔らかな肌に浮く、肉抉れた折檻痕。少し今日は酷過ぎる様感じた。
其れ程兄の自尊心は削ぎ落とされたのだ。
叱責の理由は何だったか。凄く些細な事で、兄が窓の外を見ていたのが気に食わなかったらしい教諭は、行き成り授業を中断し、兄に暴言を浴びせた。意味判らず当然兄は反論した。反論であって反抗では無い。しかし、低俗と罵る其の教諭に違いは判らず、兄にしてはいけない事をした。
其の高い自尊心を削るのは、父以外してはならないのだ。
兄は学校を飛び出し、そうして現在に至る。
私は溜息を吐き、口に詰め込まれている眼鏡を引き摺り出した。レンズには擦れと亀裂が刻まれ、フレームは変形し、折檻の酷さを物語った。割れずに済んで良かったが、眼鏡につられ零れた唾液は赤みを帯びていた。
「口、見せて貰える?」
余程殴られたのか、彼女の口は余り開かず、微かに見える中を覗いた。
「酷いな。」
此処迄頬が腫れ上がるのも納得出来た。一本の歯が、不自然な方向に向いていた。
「歯が取れ掛かってる。」
其の言葉に何故か彼女は笑った。腫れ上がった頬が不自然に歪み、けれど綺麗な顔だと素直に思った。
「次は貴女?」
疲れ切った顔で笑うのは、矢張り娼婦だからだろうか。私は首を振り、棚から救急箱を持ち出した。
無言で彼女の手当をし、抉れた肌に唇を付けた。
「御免為さい…」
呟いた私に彼女は聞いた。
「何故貴女が謝るの?」
「其れは…」
何故かは判らないが、兄が折檻した相手に謝罪するのは私の役目だった。其れで相手が許す事も、兄の行為が許される事も無いのだが、見る度、謝罪せずには居られなかった。其の謝罪が、時には相手を酷く傷付ける事がある事も私は学んでいる。
兄は、男女問わず折檻を及ぶ。
一度、相手が男の時、私は何時もの様に手当をし、謝罪し、其れに依って相手の自尊心を深く傷付け、折檻仕返された事があった。其れ切り、兄が自宅で折檻をするのは女になった。折檻された女に、そんな力は残っていないのだ。
無言の私に彼女は笑った。
「此れなら、強姦された方がマシね…」
「何故。」
聞いた私に彼女は喉の奥でくつくつと笑い、娼婦の誇りを強く感じさせる目を向けた。
どくり。
其の目に私は心臓が強くなり、全身の血やら全ての体液が沸騰した。
「私は娼婦よ。其れも一等娼館の。金持ちが大金叩いて買う娼婦よ。」
彼女の笑いは止まらず、私の知らぬ沸騰も止まらなかった。
「貴方、桃は御好きかしら。」
「あ、嗚呼。好きだよ。」
意図の判らぬ会話。其れに私は又静かに沸騰した。
「桃が二つあるとしましょう。一つは、味は良いが形崩れどす黒く変色し見た目悪い。もう片方は、全く味無くけれどなっていた時と同じ産毛生える美しい姿。」
彼女は笑う。
「貴方はどちらを手に取って?」
どくん、と身体が跳ねた。
彼女の目は、娼婦の誇りを取り戻し光っていた。
血の巡りが速く、眩暈を覚える。
「私は…」
彼女の目を見て云った。
此れは嘘偽り無く、本心であった。
「芯の強さを持つ、崩れた桃を選ぶ。」
一瞬彼女は驚いた様だったが、館の中の男と女に真実は存在しない。嘘、虚像、偽り、其れ等全てが揃い初めて、男と女で存在する。其れを彼女は、充分過ぎる程知っている。
だから、笑った。
泣き乍ら、笑った。
「貴方…優しいのね…」
「優しく等無い。優しいのなら、折檻を止める。」
「止めないのも、又優しさよ。彼に対する。」
私は其の言葉に胸と言葉が詰まった。
優しさ。兄に対する。…果たしてそうなのだろうか。兄を止めず、歪んだ癖を肥大させてゆく様を見るのは、決して優しさ等では無い。
恐怖だ。
彼女の云う優しさ等、微塵も無い。
常に付き纏う兄の恐怖に私は唇を指先で触れた侭、黙り込んでしまった。
重なる細い指先。其の指先は赤く滲んでいる。
「御免っ…爪迄剥がれてる何て判ら無くて…」
手当仕様と掴んだが彼女は笑い、其の侭指を自分で咥えた。彼女の鬱血した肌に、赤い線が出来る。まさかと指を口から出したが、剥がれ掛けていた爪は、其処には無かった。
「何て事を…」
彼女の舌に乗る爪を摘んで出そうと入れた。すると彼女は笑い乍ら私の手首を掴み、無邪気に遊んでいた。
折檻等、無かった様に。
「捕まえた。」
「捕まった。」
私が笑うと彼女は本当に無邪気に笑った。
芯の強い者は、決して汚れ無い。
其れを彼女は教えてくれた。




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